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■11月の問い
「バカと呼ばれると、悲しくなるのはなぜでしょうか?
バカと呼ばれないためにはどうしたらよいのでしょうか?」
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「そんなことこっちが教えて欲しいよ〜」
ということですね。
「ちょっと待って。それだけですか?」
そうですよ。
…すいません、ミーツで連載していた「街場の現代思想」の内田 樹先生の真似して書いてみました。※現在連載中のものは「続〜」です。
誰かからバカと言われるって、悲しいというか、ほんと寂しくなる。なんか情けない気分になりますよね。ウチで飼ってたバカ犬(柴犬・雄)が散歩中に張りきって草むらに入りウンコをしている。彼はそれをワタシにじっと見られていることにふと気付き、「あっ、見てたんだ…とほほ」というなんともいえない顔でこちらを見上げる。なんだかわからないけれど、その時の情けないロイ(バカ犬の名前)の顔を、いつも思い出すのです。
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それはそうと、ワタシはいつ人から「バカ」って言われたんだろう? そう思い起こすと…う〜ん、思い当たらない。でも、そんな情けないやら寂しいやらの感じ、結構ひんぱんにあるんですけど…で、思いだしたのが、『Meets
Regional』11月号の「街遊びの入り口」というコラムで藤田功博さんが書いてくれた『「街飲み」と「家飲み」』の原稿を読んだ時のこと。
(引用はじめ)
「街での飲酒が敬遠され、「家飲み」に支持が集まる理由のひとつには、恥の意識の変化がある。例えば、電車の中で化粧をしたりマニキュアを塗る人を見ても恥ずかしいと思わない。恥は対照的なものであり、それが本質だ。なので、自分も電車の中で同じことをする。自分と異なった価値感の人間(違う世代のひと)がどう思うかということもあまり気にしない。自分もそうだから他人もそうだ、という考えだ。思えばバブル時代、街で酔っぱらってフラフラしている沢山の大人たちを僕らは単純にカッコワルイと思って育ったし、大人になってもああはなりたくないと思って育った。だから酔っぱらって街を歩くことに抵抗を感じるし、そうなると家が酒場になるのである〜
(引用おわり)
藤田さんの言おうとしている文脈はさておき、ショックを受けたことがある。街で酔っぱらってフラフラしてきた、いや、今もなお電車の中でも酔いどれているワタシは、この藤田さんの原稿を読んで、「カッコワルイ」と思われている「沢山の大人」の姿に自分を重ねた。カッコワルイ大人であるワタシが、藤田さん世代(20代)の目線上から抹殺されようとしているという事実だ。自分が何の気ナシにしている行為を、誰か(しかもこの場合は世代丸ごと)から、そんな風に見られているということを想像もしなかった、ということに我に返ったのでした。
おそらく、藤田さんは、ワタシたちおっさんオバハンが酔っぱらってつまづいたり電車の中で吊革持ちながらフラフラしていることを「イヤだな」と思っている以上に、「そんなアナタを僕らは見ていますよ」ということに大人たちが全然気付いていない、ということにうんざりした。そうして、ある意味諦めちゃったんじゃないかと思いました。
恋愛にしろ、友人関係にしろ、それこそたまたま同じ車両に乗り合わせただけの関係なのかもしれないけれど、自分が関わっている世界で、誰かにうんざりされて諦められるって…キツいですよね。諦められたワタシは、彼らには開かれていない。開けない。その瞬間に、ワタシは何かでピシャッと閉ざされている。これは結構辛い。なんでそんなことになってかというと、ワタシが先に世界を閉ざした、つまり上の話でいうと、「誰かが自分をみているかもしれない」という想像力を持っていなかった、ような気がする。
そんな風に考えると「知らない」のがバカなのではなくて、「知らないことに気が付いていない」のがバカなんだろうなぁ。「知らない」「気付いていないかもしれない」という想像力を持っていないと、いつ何時誰かから「バカ」と言われるかもしれないということか…。そういや、洋服でも「似合わない」より、「似合ってないのに気が付いていない」方がカッコ悪いもんなぁ。怖いよ〜。ていうことを、ソクラテスも内田先生も言っていて、なんで何千年もそんな単純なことを言い続けなくちゃいけないかというと、人間というのは「バカ」に生まれついているからじゃないかと思うのです。
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じゃ、ワタシたちがバカと呼ばれないために出来る唯一のことは、ひたすら自分が「知らない」ということを「知る」努力をするっちゅうことか。つまり今回のお題で言うと、「私はバカと呼ばれないためにどうすればいいのかわからない」ということを知る、ということようなことを来る日も来る日も繰り返すしかない。
思うのですが、面と向かって人からバカと言われることって実はあんまりないよね。でも、藤田さんの原稿を読んで「ワタシはバカかもしれない」と我にかえるように、日常のささいなことでしか、実は自分が「バカ」だったり「バカでなかったり」しないんじゃないかなぁ。
そして、「バカかもしれない」と感じた瞬間のワタシは、実はバカでなくなったともいえる。という瞬間にも、自分が何かを知らないということに気が付いていない状況に陥っているバカなヤツかもしれない…と、もうワケがわかんないんだけど、たぶんワタシたちが「バカでなくなる瞬間」は同時に「バカである」て気が付くしかないわけで…。オセロが黒白黒白とひっくり返り続けるように黒(気付かずバカ)→白(バカと気付く)→黒(気付かずバカ)→白(バカと気付く)…そうして常時ものすごい速度でひっくり返り続けると、オセロはグレーに見えてきて、そのうち見えなくなってしまう。このもう何がなんらやワケがわからない瞬間が、実はワタシたちの理想の状態なんじゃないでしょうか。でも、こんなことありえないよね。
何だかよくわからない例えですいません。なんとなくこれを書きながら思ったのが、「バカ」である前提のワタシが「自分がバカかもしれない」という危機感によって、オセロをひっくりかえし続けるしかないんじゃないかなぁということ。そして、オセロが隣接するコマによってしかひっくり返らないように、私たちも実は隣の誰かからの影響でしか変われない…てことなんだろうな、ということです。
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【プロフィール】
青山 裕都子
懐に隠した真剣で、世の中を一刀両断する豪腕編集者。見かけに油断し腕一本取られた者多数。 雑誌「Meets Regional」の副編集長でもある。ナイトライフにもそのパワフルさはいかんなく発揮され、本拠地である神戸を千鳥足で日々開拓中。 |