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バカと呼ばれるとさみしい!  
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バカと呼ばれるとさみしい!

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考える人々 江 弘毅さん ・青山裕都子さん ・橘 真さん ・藤田 功博
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■11月の問い
「バカと呼ばれると、悲しくなるのはなぜでしょうか?
バカと呼ばれないためにはどうしたらよいのでしょうか?」

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確かに、「お前、足遅いよなぁ」とか「お前、字が下手だよなぁ」と言われるより、「お前、頭悪いよなぁ。」と言われる方が悲しい気分になります。いずれも、自分の身体運用のひとつの結果であるはずなのに、「頭が悪い」と言われただけで、人格批判されているような気分にもなります。これは一体、なぜなのでしょう。

結果から言うと、「頭で考えること」はすべての活動よりも一段階上の概念だと思われているからです。自分の行動を支配するのは「頭で考えること」であり、行動の結果は頭で考えた結果だとしてとらえられるのが一般的です。自分の行動の前の段階で「頭で考える」というステップがあり、これがうまくいかないと、次の行動の結果もうまくいかないと考えられているのです。

つまり「お前、頭悪いよなぁ」と言われて悲しくなるのは、その言葉の裏に「頭が悪いから、何をやってもダメそうだよね」というマイナスのメッセージを解釈しているからだと考えられます。根底を否定されると、そこから派生するさまざまなことを否定されている気になるのです。



身も蓋もない当たり前のことですが、バカと呼ばれないようにするには、知性をつけるしかありません。知性をつけるためには、さまざまな知識を身につけ、物事の本質を理解していくことが必要です。

しかし、必要に迫られなければ、知識というのは頭に無理矢理押し込んでもすぐに逃げていきます。情報の洪水の中で生きている私たちには、自分たちが必要としている情報のみを取り込もうとする、情報の選別機能が身に付いているからです。見ているとき、読んでいるときは、へぇ〜とノンキにうなずいていても、次の朝起きたらすっきりと忘れているはずです。学生時代にならった数学や英語の知識がすでに頭から抜けていってしまっていることからも、興味のない知識は抜けていくという事実がわかるでしょう。



では、知性を身につけるためにはどうしたらよいのか?その前に、知性とはなんなのでしょう?バカと呼ばれないための道のりは、ここから始まります。

考えてみれば、「頭が悪いこと」に対してとても敏感な時代である一方で、上記のような、知性に対する根本的な疑問を考えている人はほとんどいません。これはなぜなのでしょう。バカと呼ばれないためにまず考えるべきなのは、「頭が良い人とは、どういう人のことなのか?」「頭が悪い人とは、どういう人のことなのか?」という疑問のはずです。

知識をつめこめば、それで「頭が良いこと」に直結するかというと、そうでもありません。頭の中に知識がぎっしり詰め込まれた東大生や京大生がみな、「頭が良い」かといえば決してそうではありません。(関西圏で言うところの「アホな」ではなく「バカな」京大生を、僕は何人も目にしてきました。)

また、受験勉強を勝ち抜き、組織内の競争も勝ち抜き、信用ある地位に立った人が、どうみてもバカな理由で、明らかにバカな行動をするシーンを何度も見てきました。

まず第一の結論としては、「知識がある」ということと「頭が良い」ということは、直結しないということです。知識はなくても頭が良い人はたくさんいるし、知識があっても、バカな人はバカです。

少しずつ、狙いは定まってきました。もう少し踏み込んで考えてみます。



知性がある人とは、少なくとも、自分の身の回りの世界について、きちんと説明できる人のことだと思います。ひとつひとつの行動にきちんと論理が通っている人。自分がしたこと、自分がしようとしていることに妥当な理由がある人のことだと思います。そのような人間になるには、常に「それはなぜか」という疑問を持ち、その答えを探し続ける必要があります。

自分の周りを見渡してみれば、見過ごそうと思えばいくらでも見過ごすことのできる事象がたくさんあります。それらを見て見ぬふりをせず、キチンと向き合い、その理由を追及できる人が頭の良い人であると言えるのではないでしょうか。つまり知性のある人とは、身の回りの事象について「なぜ」を発見できる人、そしてその答えを見つけるために自分なりの論理を組み立てられる人のことをいうのだと思います。自分の行動を振り返り、良くも悪くもなぜそういう結果になったのか、次はどうすればよいのかを考えることです。



知性を身につけるためには、まず「当たり前」という言葉を自分の辞書からなくしましょう。この世の中には当たり前の事実などほとんどありません。デカルトを引くまでもなく、この現実世界の存在さえ疑問の対象になりえます。夢から醒めたとき、始めてそれが夢だったと気づきます。夢の中では、起きていることは全て「現実」なのです。「醒める」というきっかけがあって始めて、それまで「現実」だと思っていたことが「夢」だと気づくのです。「あぁ、夢だったのか」と。

だとすれば、自分が現実だと思っているこの世界が、ある時点で突然、「醒める」ことによって終わらないとどうして証明できるでしょう。現実さえも「当たり前」に存在しているものではありません。「当たり前」という便利な言葉は、自分の思考を停止させてしまいます。その言葉でほとんどのことが説明できてしまうからです。バカと呼ばれたくなければ、この言葉を使うことだけはやめたほうがよいでしょう。

雨が降るのはなぜなのか、クルマはなぜ走るのか、といったありふれた疑問にはじまり、なぜ自分は生きているのか、なぜ自分はこの仕事をしているのか、一度きりの人生で何がしたいのかなど、自分の中にしか答えのない疑問にまで目を向けることが大切だと思います。

バカと呼ばれると悲しくなるのは、当然のことです。バカなままだと自分の身の回りの世界を何ら説明できないからです。自分自身のこと、自分の身の回りのことが説明できないということは、流されるままに生きているということであり、そこに主体性は存在しません。「生きている」のではなく、「生かされている」状態だからです。バカと呼ばれることで、流されるままに流されていく、自分の無力さに気づくからと言ってもいいでしょう。さらにそのことにも気づくことなく、逆上したりすれば、周囲からは全く尊重されないことでしょう。

バカかどうかは、他人の方がよくわかるものなのです。バカと呼ばれて感じるさみしさを正面から受け止めて、じゃあバカとは何か、どうやったら賢くなれるのかを考えることが、バカと呼ばれなくなるための唯一の方法です。賢くなるための近道などありません。バカと呼ばれて悲しくなったその瞬間が、スタートラインに立った時なのです。そのことに気づかない人があまりに多いと思います。「どうせ俺はバカだから」と軽々しく開き直る人は、「バカとはどういうことか」という問いにすら答えられないのです。



僕らは学校で、問いと答えがセットになったものしか経験してきませんでした。ひとつの問いに対して、必ず答えがひとつに決まる。そういった問答のみを繰り返してきたのです。答えがない問いや、どのような答えでも答えになる問いを経験したことはほとんどないのです。そしてそもそも問いを自分で立てて自分で考えるということも行ってきませんでした。本をたくさん読んで、知識を身につければ賢くなるという幻想はここから来ています。

ほとんどの本には、問いに対する答えが書いてあります。その本を読むことで、答えがわかった気になるし、その延長として、明快に答えが書いてある本、主張が明確な本ほど支持される傾向が強いです。しかし、答えがひとつに決まるような問題は、しょせん小さな問いなのです。

人生の上で考えるべき問い、知性を身につけるために考えるべき問いは、そのような簡単な問いではありません。「人は何のために生きているのか?」「人生に目的は必要か?」というような問いに、果たして明確な答えはあるのでしょうか?ないと思います。

これから、このコーナーでは、そういった、問いが一つに決まらないような、でも答えを見つけたくてしかたがないような、人生における疑問を考えていきたいと思います。答えはひとつに決まらない以上、複数の人間の意見が必要になります。さまざまな人のさまざまな意見を参考にしながら、あなた独自の答えを見つけてください。自分自身の結論を見つけるために、思考をめぐらせる。その結果、あなたはバカと呼ばれなくなっていくでしょう。

次回のテーマは「フリーターという生き方について」です。
執筆陣がいよいよ登場。お楽しみに。
今回のテーマに関するご意見は tegami@onozomi.com までお気軽にどうぞ。
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