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考える人々 青山 裕都子さん ・橘 真さん ・内田 樹さん ・藤田 功博
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■12月の問い
「フリーターのどこが問題ですか?
そもそも、仕事ってなんですか?」

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よくモラトリアムの象徴とされ非難される学生やフリーターも、ただボーっと働いているわけではなくて、ちゃんと考えてるようです。

というのも、「世の中にフリーターが増えてきており、これは憂慮すべき事態だ」というアナウンスが国から行われることで、反面教師的にフリーターをとらえ、自分の将来を真剣に考えようとしている部分があります。

それをふまえて、まずはフリーターについて考えてみます。



フリーターは一個人でもあり、社会の一員でもあります。一個人として見たとき、その幸福追求の方法としてはフリーターは意味のある選択になってきていると思います。失業して次の就職までの緩衝剤にもなりますし、都合に合わせて働くこともできます。いわゆる「やりたいこと(それがたとえ遊びであれ)」をできる環境だと思います。

しかし、社会の一員でもあるという面から見たときには、その構成員としての役割を十分に果たしているわけではないと思うのです。

構成員としての役割とはつまり、「あなたは自分の所属する社会に対してどのような貢献をしているか」に他なりません。

社会への貢献というのは、金銭面と行動面の2つに大きく分類できます。



まず社会への金銭的貢献である税金と保険を考えてみます。

彼らの多くは、所得税を払っていません。そして、保険も払っていません。まず所得税に関して言うと、これは完全な国家サービスのただ乗りになります。税金を払うのは確かに苦痛ですが、その苦痛を分け合うことで、各種の公共物への投資が実現可能になります。例えば中国へビザなしで、パスポートだけで行けるようになったのも、日本という国がコストをかけて友好的な関係を作ってきたからです。日本中に張り巡らされる国道や高速道路も、収支はどうあれ、国家投資の結実したものです。これらの恩恵を受けつつ、個人の幸福追求のみに終始し、税金や保険を払わないような行動を取るのは、社会的観点から見て好ましいとは言えません。

「個人レベルでの幸福の最大化は、国家レベルでの幸福の最大化につながらない」という前提を、フリーターがふまえていないこと、そして知識人や行政側がこのことを最も問題視していること、などがフリーター批判の第一理由だと思います。



次に、行動的な貢献はどうかを考えてみます。

フリーターを中心とする若年層の、地域コミュニティへの貢献・かかわりは確実に減っています。理由を考えてみます。

彼らが暮らすのは、単身者用のマンションです。1棟に10以上の部屋のあるマンションでは、地域コミュニティの伝達手段である「回覧板」が機能しません。回覧板は、お隣からお隣へと諸注意やお知らせを回していくものです。この回覧板は、「お隣さんにわたす」という儀礼的・定期的な行動と通して、隣近所の人の顔や近況をうかがい知るのにとても都合のいい制度でした。ファックスや電話を使えば連絡はできますが、あえて回覧板を用いることで、顔と顔を合わせるコミュニケーションを作りだしていたのです。ひとまずマンションでは、この回覧板が機能しません。入り口付近に貼り紙をして、見たい人が見るという仕組みになっています。「今度寄り合いがあるから参加してよ」と誘われることもなく、地域コミュニティへの寄与の度合いは必然的に減っているのが現状です。

つまり、現在のフリーターは社会というぼんやりとした共同体から離れたところにいて、しかもそこへアクセスする意欲をもっていないのです。



共同体というのは、あると思えばある、ないと思えばないという、多分に幻想的なものです。崩れだしたら早い。それをわかっている人たちが、共同体を離れていこうとするフリーターに対してなんとなく不安な気持ちになっているのだと思います。

つまり、社会という漠然とした概念の共同体があると信じ、そこへの働きかけを行ってきた人たちは「人は決してひとりでは生きていけない。だからこそ、みんな支え合っていくのが本当のあり方だ。税金はきちんと払うし、休みの日には町内会の寄り合いに行くべきだ」と考えています。それによって社会という共同体が支えられていくと考えているからです。

それに対してフリーターの多くは、「自分のことは自分で面倒見る。それで問題ないですよね。だからほっといてください」と、前述の価値観を受け入れようとしません。

ここにとても大きな思想のギャップがあると思います。サラリーマンは政治家や官僚による税金の無駄遣いに腹を立てながらも、「俺の納めた税金は世の中で何かしら役に立っている」と自負して税金を納めています。漠然とした何かを信用して、払っているのです。

そこへきて「え、なんで税金なんて払わなくちゃいけないの?もったいないじゃん。」というフリーターの個人主義的な意見を目の当たりにすると、ついつい否定したくなってしまうのでしょう。自分たちが信を置いてきた共同体が崩壊していくという、漠然とした不安感が生まれているのだと思います。彼らが今の日本のサービス業を支えていると言っても過言ではないのに、「なんとなく問題視」されるのでしょう。


そこから考える、仕事についてのこと。

時給や日給で働く人に仕事の意味を問うと、「時間と金銭の交換作業」と言う場合が多い気がします。労働時間に、時間あたりの金銭評価をかけ算し、その結果が給料となるという考えです。

時給労働者に限らず、「仕事はお金をかせぐ手段」という考えを持っている人は多いのではないでしょうか。「生きていくためにはお金が必要ですからね。だから、働いているんです。」これも、よく聞くセリフです。

僕はこういう考えはよくないと思います。

例を挙げます。

出世競争に疲れたサラリーマンが多い一方で、ボランティア団体、NPO、果ては国連職員などお金を稼ぐために仕事をしているわけではない人たちが笑顔で仕事をしているのはどう説明できるでしょうか。

お金を稼ぐことが仕事の第一目的なら、儲けまっしぐらの消費者金融や風俗店で働く人たちを批判すべきではないはずです。

前述のように、仕事は社会に対する投資であったり、自分が社会の一員であるための権利を有するための、ある種義務的なものだと考えます。

人が生まれた時から、仕事は存在したはずなのです。貨幣が誕生するはるか前から、人は仕事をしていた。仕事をすることで、社会に対してコミットでき、コミュニケーションが生まれる。

社会の構成員から一人前の「おとな」として認知され、まともに相手にしてもらうための方法が、仕事をすることなのではないかと考えています。



お金のためというのは仕事をすることのひとつの理由でしかない。

それよりももっと大切なのは、その仕事を続けることで人からどう思われるか、社会からどう見られるかということだと思うのです。もっと具体的に言えば、親や恋人に胸を張って自分の仕事の中身とその意義を説明できるかどうか、仕事していて後ろめたさを感じるようなことがないか、そういう身も蓋もないようなことだと思います。

仕事という概念からお金の話を一切合切抜いた時に、実は何も残らないというのは悲しい話ではないでしょうか。

自分は自分の仕事を通して、社会にどのように貢献しているか。自分以外の他人に対して、どのような働きかけができているのか。それらをふまえ、どうやって生きていくのか。

それがはっきりしている人ほど、仕事にやりがいを感じて楽しく仕事ができるのではないでしょうか。

社会のために働く、という理念がなければ、仕事はただのカネ稼ぎです。カネ稼ぎは、すぐに数字の争いになります。それだけがやりがいになります。いかに早く、いかにラクして儲けたかが重要になります。

そういうのはもう、やめるべきだと思うのです。


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