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■1月の問い
「就職活動を始める人へ、
アドバイスをするとしたら?」
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藤田くん。就活学生のための「仕事について」書きました。
就職というのは、まず、「社会人になる」ための最も手っ取り早い手段だと思うのです。フツーの人が社会人というものになる、極めて一般的な方法で、どこにでも転がっているようなもの。よく「就社」とかいわれてますが、そういうことを言い表しているのだと思います。
けれども社会人になるということは、結構深いものがある。じゃあ、社会人とは何だろう。
これこれこういう人のことを社会人という、という定義はいろいろあると思うのですが、確かなことは「子どもではない人」のことを指すのではないか、ということにひとまずここでは留めておく。そうなると「社会人イコール大人」ですね。
大人というのは、自分で決めたことを自分でやって、そのプロセスと結果の全責任を自分で負う人のことです。その「自己決定」できて「自己責任をまっとうする」という社会的意義は、かけがえのない大人の行為です。そしてそういうことができる人を「社会人」と呼ぶのかも知れません。
石を投げてよその家のガラスを割った。「だって石を投げたかったもん」。一回は許してくれるでしょう、子どもなら(子どもだから)。
けれども、そういう人に仕事をしてもらうわけにはいきません。
仕事というのはそれで「生計を立てる(≒メシを食べていく)」という人間にとってとても重要な経済活動の代表例ですが、この時代にはある同じ仕事をずっと引き続けてやることは、なかなか難題です。だから、今の新卒者の3分の1が3年以内にやめて、とか転職する人が多い。実際はまあ「転社」がほとんどですけどね。
ある一定のジャンルの仕事が「固定化」されれば「職業」になるのだと思いますが、わたしの育った岸和田の街場の場合など、家業が酒屋だとか家具屋とか、さらに大工やだんじり彫刻師や漁師の網元とかが多いのですが、その場合、なかなか一人前、つまり社会人として認めてもらえない。
つまり就職=社会人になる、というインスタントな概念がないし、まずはじめは「弟子」「見習い」とか「丁稚」とかで呼ばれる。
親とか先輩とか師匠とかに付き、その下で仕事を続け、一定の腕(スキル)および信頼を獲得し、彼が職(業)人として、親方はじめその業界の人々の承認を得て初めて「どこそこの若い衆」とか「どこそこの若主人」(=社会人)と認知される。
実際それは、仕事のための場所やお金、道具や船や網、あるいは人間関係といったものを信託されたり、逆にその人の将来性や継続的な労働力を担保するという仕方があり、初めて成り立つものだと思います。
そしてそういうふうに社会人として認知された人だけが、自己決定/自己実現しうる。これは単なる「生活のために労働力を売る」といった次元の話ではないはずです。
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自己決定が可能であるためには、その人の「決定」が熟慮された合理的決断であり、かつ誰にも阻止介入することのできぬ実力的な裏付けをもつものであり、かつその事実が関係者全員に熟知されていることが必要だ。
自己決定が可能であるためには、それ以前に、その人の判断が「ほぼつねに適切であった」という事実と、その人がいったん「やる」と決断したことは「ほぼつねに実現されてきた」という事実の蓄積が必要だ。
自己決定というのは「よーし、今日からおれは自己決定するぞ」というようなお気楽なものではなく、長期にわたる実践を通じて獲得され蓄積された社会的な敬意と信用の上にはじめて可能なものなのである。
と内田樹先生は書いてらっしゃいましたが、自己決定/自己実現というのは、重層的に構成されている社会(家族や大学のゼミやあるいは現在の職場や得意先など)の中での目に見える手に取れるかたちのコミットメントがあってこそ可能です。
そういう意味で「よーし、オレは明日から編集者(医者でも銀行員でもギタリストでも可)になるぞ」というのと「社会人として最低のルールを守っているし、だれにもめーわくかけてないから、ワタシが何をしたっていいじゃない」というのは、どうも同じことのような気がします。
そんなのは仕事ではないですね。
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就職というのは、たやすく仕事に就くためのほんの一つの手段であることに過ぎない、とわたしは思います。
世の中には、就職活動をしている学生には到底計り知れないたくさんの仕事があり、またどんどん新しい仕事が分節されています。
そしてその仕事の内容が、その人だけのユニークなものであればあるほど、他者からのリスペクトが得られるし、やっぱりやっていて愉快に決まってる。
他の人には出来ないけど、自分なら出来る仕事。そんな領域を広げていくことが、「仕事が出来る」ということであり、そういう人は正真正銘の「大人」です。
考えてみるとわかるのですが、自分がどうがんばっても出来ない、と予測出来ることがらについては「義務」という観念は生まれてきません。
極端な話、わたしが明日から大リーグで20本ホームランを打つというのは、どう考えても出来ない。だからそれに対する義務なんてさらさらない。
けれども、それが「ちょっと頑張れば、自分なら出来ること」なら、それが「自分がやるべきこと」になる。もちろん人や社会はそれをあなたに期待する。
繰り返すようですが、そんな「仕事を可能にする」人のことを「大人」だと呼ぶのだと思います。そして、子どもではない大人だけが責任のというものをまじめに考えることができるのだと、わたしは思います。
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【プロフィール】
江 弘毅
だんじりから生まれ、だんじりに育てられた由緒正しき岸和田文化の継承者であり、雑誌「Meets regional」の編集長。祭の現場よろしく、何事も即断即決のオトコマエであるが、イラチと紙一重という話も。 |