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■2月の問い
「知性とは何か?」
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学校教育について「だめだ」「崩壊している」という事実認知を何百回繰り返しても、その先には進めない。いまのが学校教育が根本的な改革を必要としていることは誰にでも分かっている。
問題は、では教育制度をどう変えるかということと、「変える」ための意志決定プロセスをどのようなしかたで立ち上げるか、二つの水準にかかわってくる。これはどちらもたいへん大事な問題である。「どう変えるのか?」という問題と、「誰が、どういう仕方で、それを決定するのか?」という問題は複雑にからまりあっている。
総理大臣の諮問機関のようなところが教育の未来について設計図を描いているかぎり、日本の教育に未来はない。それはたしかである。
というのは、たとえば、このような委員会に集まってくる人たちは「日本文化はだんだん退化してゆく」とか「日本は国際社会におけるプレザンスを縮小してゆく」とか「日本経済はこのまま沈下を続けてゆく」いう「前提」に立って発想することが原理的に許されていないからである。
しかし、現実にうちの子ども達の世代は、自分たちがひとの親になる頃には、日本はもっとひどいことになっていて、生活水準も、知的水準もいま以下になっているだろう、という予測のもとに生活設計をしている。
子ども達の直観を軽んじてはならない。
そのような「近未来についての悲観的見通し」を前提にして、そのような脆弱な知的インフラ「の上に」なお、いかなる教育制度を再建しうるか、というかたちで教育の未来については語られる必要があるだろう。
村上龍は、作家的直観にもとづいて、「学校に通う」ということが複数の教育オプションのうちの一つとなるような制度を構想している。私はこの見通しに賛成である。
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「知識」についていえば、私が持論としているように、そんなものはいくらためこんでも何のたしにもならない。必要なのは「知識」ではなく「知性」である。
「知性」というのは、簡単にいえば「マッピング」する能力である。「自分が何を知らないのか」を言うことができ、必要なデータとスキルが「どこにいって、どのような手順をふめば手にはいるか」を知っている、というのが「知性」のはたらきである。
学校というのは、本来それだけを教えるべきなのである。
古いたとえを使えば、「魚を食べさせる」のではなく、「魚の釣り方を教える」場所である。自分が何を知らず、何ができないのかを言うためには、自分自身を含むシステムの全体についての概括的な「見取り図」を持っていることが必要である。
自分がこの社会のどこのポジションにいて、今進んでいる道はどこへ向かっており、その先にはどのような分岐点があり、それぞれの分岐はどこにつながっているのか。それが分からないものにマッピングはできない。
マッピングが出来ないということは、主体性がもてないということである。というのは、「マッピング」というのは、「自分がいる場所」、つまり「空間において自分が占めている場所」つまり、「他の誰によっても代替不可能な場所」を特定することであるからだ。
学術研究論文がまず先行研究批判からはじまるのは、「自分の位置を知る」ことが、おのれの「オリジナリティ」「唯一性」を知るためのたった一つの方法だからである。
主体性とは「他の誰によっても代替されえないような存在で自分は在る」という覚知とともにしか成り立たない。
そのためには「マッピング」が不可欠である。そして、「マッピング」のための問いとは実定的な問い「私はどこにいるのか?」「私はなにものであるのか?」「私は何ができるのか?」ではなく、「私はどこにいないのか?」「私はなにものでないのか?」「私はなにができないのか?」という一連の否定的な問いなのである。
学校教育とはほんらい、このような否定的な問いを発する訓練のための場である。
自分が「何を知らず、何をできないのか」を正しく把握し、それを言葉にし、それを「得る」ことのできる機会と条件について学び知ること、それが学校教育で私たちが学ぶことのすべてである。それさえ提供できれば、すべての場所は「学校」である。それは制度である必要も、空間的現実である必要もない。
たとえば、サイバースペースはもはや十分に学校として機能している。なぜなら、そこで何かのデータを得ようとするものは、なによりもまず「自分はどのようなデータを欠いているのか」「自分はそのデータに到達するためのどのようなスキルを欠いているのか」をできるかぎり分かりやすい言葉で交信の相手に伝える必要があるからだ。
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自分の「欠如」や「不能」を適切に言語化する能力を人間関係に翻訳すると、それは「ディセンシー」と呼ばれる。求めているデータを待つときの忍耐と沈黙は「レスペクト」と呼ばれる。インテリジェンスとは、「おのれの不能を言語化する力」の別名であり、「礼節」と「敬意」の別名でもある。それが学校教育において習得すべきもののすべてである。
その原点に立ち戻るならば、私たちのまえにはまだ無数の可能性が開かれているように私には思われる。
では「どのように学校を変えるべきか?」、「誰がどのようにしてそれを決定すべきか?」これについては、みんなの意見を聞きたいですね。
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【プロフィール】
内田 樹
神戸女学院大学教授。語り口は柔らかく、それでいて切れ味は抜群の哲学者。驚異のハイペースで出版される書籍は、出されるごとに、「世の中の見方が変わった」というファンを生み出し続けている。2003年に刊行された「疲れすぎて眠れぬ夜のために(角川書店)」と、「子どもは判ってくれない(洋泉社)」はとにもかくにも必読の書。HP「内田樹の研究室」でも読み応えのある日記を公開中。
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