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おのぞみドットコム バカと呼ばれるとさみしい!>巨匠対談 内田樹さん × 釈徹宗さん 「因果と倫理と宗教」
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巨匠対談
「因果と倫理と宗教」
その10 釈徹宗さんの意見

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インターネット持仏堂(単行本は好評発売中)」
http://www.tatsuru.com/jibutsu/html/text.10.html
より引用しています。


「その9」、大変興味深く拝読いたしました。

以前からぜひおうかがいしたかった内田先生の「宗教性」観を垣間見ることができました。「その9」は、これから先「内田樹研究」という分野ができたとき、かなり重要な一文になるのではないでしょうか。かつてないような「宗教性」論に、大いに触発された思いです。

それにしても、先生。曹洞宗・プロテスタント・大本教※1・・・、神道の儀礼に食前の祈り・・・とは、い、いくらなんでも・・・。

まさにシンクレティズムの権化(笑)。


【「その9」で語られた宗教性】
 
内田先生ならではの「宗教性」論には、数多くの示唆が提示されております。中でも、「−世界の創造に遅れてきた−という自覚」こそが「宗教性」であり、「どういうルールで行われているのかわからないゲームに、気がついたらもうプレイヤーとして参加していたというのが人間の立ち位置」という卓見、噛めば噛むほど味がでてきます。

(さらに、「その9」ではレヴィナス先生を援用され、「私には知れないルール」こそが「善」なのである、とたたみこまれるわけです。「善」・「悪」については、おそらく内田先生が「宗教と倫理」の問題で本格的にを語られることと思われます。そこで、この部分は保留にさせていただき、「宗教性」について、さらに私見を綴らせていただきます。)

ですから私は「誰に対して、どのように感謝してよいのか、私には分かっている」と言い募る人間を「宗教的な人間」であるとは思っておりません(こんなこと書くと、世界中の宗教家にケンカを売るようなものですが)。

売ってます、売ってます(笑)。間違いなく、売ってます。

しかし、成熟した宗教性は確かにこの方向性をもっていると思います。たとえ宗教がそのまま自己や社会を形成する基盤となっている敬虔な一神教徒であっても、「神をはかることはできない」という地点に行き着くはずです。仏教においても、真如は「不可称・不可説・不可思議」です。

「私にはわかっている」とは、理性の傲慢にほかなりません。かかる理性の傲慢を凌駕するためにこそ、宗教的パトスは体系化されてきたのかもしれません。

「わからないが」、「おまかせする」という態度。これが「信仰」です。「わかっていて」「信用する」なら、あくまで理知のわざでしかありません。

またウチダ宗教性論の特徴は、宗教儀礼とリンクさせて点にあろうかと思われます。

身体知を主張されている先生にとって、当然の帰結と言えそうです。

「儀礼の軽視」も現代「脳化」社会の特徴でしょう。現代人はもう一度、「儀礼」や「象徴」がどれほどダイレクトに共鳴心性を揺さぶるかということついて再認識しなければなりません。


インターネット持仏堂(単行本は好評発売中)」
http://www.tatsuru.com/jibutsu/html/text.10.html
より引用しています。


【プロフィール】
釈 徹宗

1961年生まれ。大阪府立大学大学院人間文化学研究科比較文化専攻博士過程修了。学術博士。現在、龍谷大学、相愛大学の講師をしつつ、池田市にある浄土真宗本願寺派如来寺に所属。わかりやすい語り口で仏教の本質を説明してくれる。主著に『親鸞の思想構造』(法蔵館、2002年)。

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