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■6月の問い
街的ってなんですか?
いい店ってなんですか?
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Meets ミーツ2003年6月号 113ページ より引用しています。
いきなり「トロ」を
やっても言い店と
やってはイケナイ店。
街の雑誌をつくる仕事をしていて、こういうことをいうのも矛盾しているが、鮨屋は「インテリアが誰それの店」とかフレンチ・レストランとかの場合と違って、雑誌を見てその店に初めて行くというところではない。
だからというわけではないが鮨屋には値段が書いていないところが多くて、一見を簡単に寄せ付けない。そういうところに入ってあれこれ食べて「2万円」(2千円もあり)と言われたときには「はい」と払うしかない。そこで「明細を見せてください」「トロが1カンの値段は」というのは外国語を遣うのと同じでルール違反だし、それで「?!?」となったら、もう2度と行かないという方法しか取りようがない。
逆に言うと鮨屋には「誰かに連れて行ってもらう」つまり「人に習う」という入り方で暖簾をくぐるのが常套的で、そこからどんな店なのか、つまりそこのルールやシステムや客層などなどを知る事になる。けれども肝心の「何が旨いのか」や「何を食べるといくらなのか」は、店とのやりとりを繰り返す事でしかわからない。たぶんに言語的なのである。そこのところに鮨屋に通ったり、時に使い分けたりする愉しさがある。鮨屋で旨いものにありつける仕方とは、昨今のグルメ的な場所替え店替え品替え行きまくるのではなく、店やそこの人とのさまざまなやりとりにプライオリティをおけるかどうかだ。
そして「何を注文すると旨くていくらで」という問いに一般解はないのと同じように「いきなりトロを注文してもいいか」といった食べ方(マナー)に正解みたいなものはないし、むしろそんな「正しさ」というのは鮨屋においてたいして重要ではない。例えばもちろん職人がつけ場のまな板を布巾できゅっと拭いて「何しましょ」とコンタクトがあってから、初めて「トロ」と注文することとかの基本は必要だが、その店が「感覚的には自分に合うかどうか」ただそれだけが問題なのだと思う。
それは多分、大げさではなく鮨屋と「わたし」とのパーソナルヒストリーの全史が関わってくる。つまり誰にどんな店に連れていってもらったかかとか、「わたし」がどんなきっかけでどんな鮨屋で食ってきたかによって決まる。
値段表記やメニューのあるなし、ネタがショウオフされていなくて客が「今日は白身は何が」と訊く店、すべて「おまかせで」の店、ガラスケースを見るなり「おー、赤貝うまそうやのお」といきなり「赤貝造りで」と注文する店、手で食べて風流な流水の溝で指先を洗う店、ネタに醤油をしゃしゃっと刷毛で塗る店、ネクタイを締めている板前が握る店、地元のヤンキー上がりの鉢巻兄ちゃんが握る店・・・どれも紛れもない鮨屋である。
そのようなその店固有のリアルさが面白くて仕方がないのであるが、「いきなりトロ」オッケーの店は関西の下町においては多そうだ。それでも「いきなりトロ」は諸先輩方に習うまでは「やってはいけない」のだとも思うが。
ミーツの10年ほど前の鮨屋特集で、取材をいやがる若いご主人に頼み込んだ三宮の[源平]はとりわけお気に入りで、120戸の町内に3〜4軒も鮨屋がある地元を離れ、むしろここで親しんできた年月が長くなってきている。
大将と呼ぶのがしっくりくる風貌になった彼はその記事でこう言っていた。「格式がどうとかは鮨屋にはないでしょ。エエ格好してもしゃあない。だから本に載ってるからいっぺんいってみたろというグルメの客は迷惑やし、すしは何ぼというものはないから、それぞれの人の値打ちの持ち方で好きなとこで好きなように食べたらエエ」。この店でいきなり「トロ」はどうだろうか。
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【プロフィール】
江 弘毅
だんじりから生まれ、だんじりに育てられた由緒正しき岸和田文化の継承者であり、雑誌「Meets regional」の編集長。祭の現場よろしく、何事も即断即決のオトコマエであるが、イラチと紙一重という話も。 |