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古代人にとっての菓子は、果物や木の実などの果実で、「果子」(写真1)であった。橘や柿、栗の実がその例だ。その後、穀物加工の技術が生まれ、小麦粉、うるち米、もち米を主原料とする餅や団子が作られるようになり、蔓あまちゃを煮詰めた甘味や米もやしから飴が作られた。
(写真1)「果子」
六一年、菓祖神・田道聞守(たじまもり)によって、日本に橘の実が伝来したという伝説が『日本書紀』に残る。 |
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仏教と共に大陸から穀粉製の「唐菓子(からがし)」(写真2)が伝わる。伝来当時は、宮廷の行事や大寺・大社の供物として用いられ、庶民には縁遠い存在だったが、粉をこねたり、油で揚げたりする唐菓子の製造技術が、後に饅頭や煎餅などの菓子を生むことになる。
「唐菓子(からがし)」(写真2)
六三〇年より遣唐使の渡航が始まり、政治や文化と供に唐菓子が伝来した。唐菓子とは穀物の粉をねって油で揚げたものと推測される。宮中や神社仏閣の儀式に神饌菓子として用いられ、現在でも下鴨神社、春日大社、祇園神社などに伝わる。 |
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| 奈良・平安・鎌倉時代を通して、和菓子は主食またはその補食的存在であったが、この頃になると喫茶の習慣が発達し、菓子が中間食である「点心」として用いられるようになる。またこの頃、中国から来日した僧が羊羹や饅頭の作り方を伝えたとされている。 |
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室町時代末期から接触のあったポルトガルからカステラ、ボウロ、コンペイトウなどの「南蛮菓子」(写真3)が伝わり、キリスト教の宣教師達が布教に用いたことから急速に普及した。当時の日本ではなじみのなかった砂糖、卵などがふんだんに使われた南蛮菓子は、その後の和菓子の発展に大きく影響することになる。
「南蛮菓子」(写真3)
南蛮菓子の伝来。(カステラ・ボウル・カルメヒル・アルヘイ糖・コンヘイ糖の五種)当時の日本には、砂糖を栽培・製造する技術がなかったために、南蛮貿易で砂糖を輸入していた。写真は、南蛮菓子に用いられた木型。後に和菓子でもこのような木型が用いられるように。 |
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道明寺粉や白玉粉などの新しい米粉が作られ、落雁類や求肥などのレパートリーが加わったことで和菓子はめざしい発展をとげる。また、「上菓子屋組合」(写真4)といい、上菓子屋が集まって仲間を組織し、白砂糖の使用を独占し、上菓子を真似て作ることを規制した。菓子屋の規模が拡大したのもこの頃だ。
「上菓子屋株仲間」(写真4)
上菓子屋が集まって仲間を組織し、白砂糖を手に入れる為に上納金を納め権利を得た。上菓子屋仲間は二四八軒に制限されていた。写真は、「株仲間印札・株仲間添証文」(澤屋播磨家伝)
※写真提供 [俵屋吉富]京菓子資料館
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| 徳川家三代目将軍家光から五代目将軍綱吉の頃までに、京都の菓子が江戸へ伝わり、[桔梗屋]をはじめとする京都の菓子司が江戸に下った。それらの菓子司は、江戸で京菓子の全盛時代を作った。その後、江戸でも独特の個性をもった菓子が発展し、京都を中心とした菓子と江戸を中心とした菓子とが競い合うように。こうした競い合いから和菓子の製造技術はさらに発展し、現代とほとんど変わらないような精巧で凝ったデザインの菓子が数多く生まれた。
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| 明治維新の大変動に伴い、外国の文化が多く吸収されるようになった。洋菓子が伝わったのもこの頃だ。明治期には、銀座で初めて動物性のバターやミルクなどの材料が用いられたビスケット、アイスクリームなどの菓子が販売された。京都では、七条停車場(現在の京都駅)で、「おせんに、キャラメル、八ッ橋〜♪」の呼び声と共に、八ッ橋の立ち売りが行われヒットした。
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| ますます洋菓子文化が隆盛するようになると同時に、和菓子にも新風が吹き起こる。保存技術が発達したことで、生八ッ橋などの商品が土産物として定番商品に。また、全国各地の百貨店で京都展が開かれ、京都の名だたる菓子司の和菓子が全国ブランドの菓子へと成長した。
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