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有限会社石源 内田一  


現在、「石屋」と呼ばれる職業には3種類ほどあり、石造建築、墓石、そして石像美術に分かれます。今回お話をうかがった[石源]の代表である内田さんは、京都の北白川で石屋を営んでから、6代目にあたると言います。

京都の白川村(現在でいう左京区北白川近辺)は古くから半農、半工の業で栄えた地域です。男性は近辺から採れる良質の白川石を使って、石造品を造る石工となり、女性は『白川女(しらかわめ)』という呼び名で知られるように、京都の町中で花売りをする他、田畑を耕し、山の柴刈りに精を出し、遠く伏見、宇治方面で番茶刈り等をして、1年を働き通して生計をたすけていたと言います。そして、現在では北白川における石屋は数少なくなりました。

歴史をふり返れば、古代の環状列石や神社の磐座磐境など宗教に関係する遺跡をはじめ、石を素材とした造形活動が数多く残ります。近年、奈良県明日香村で発掘された約1300年前(飛鳥時代)の亀形石造物の話題が、神秘性を持って多くの人に語られるように、私たち日本人は、石と深い関わりを持っているように感じます。

今回は、石造美術を扱う仕事とは何か。また、石造美術を“所有する”ということはどういうことか。その歴史的な流れ、文化の変容といったことも含めて、[石源]のご主人にお話を伺いました。




Q、京都の北白川には、古くから多くの石屋が軒を連ねたとお聞きしましたが、その理由は何でしょうか。また、石造物が現代のように住宅にも置かれるようになるまでどのような変遷があったのでしょうか?

ここ北白川近辺は、平安時代より石工の里としての古い歴史があり、明治の頃には、約250人もの石職人がおりました。その理由としては、白川石と呼ばれる良質の石が大文字山から北白川近辺にかけてよく産出したこと、そして神社仏閣などに奉納される灯籠などの石造品が数多く造られたということが挙げられます。

現在でも「平等院型」、「青蓮院型」など、寺社の名前によって灯籠の型を呼び分けているように、平安、鎌倉時代までは石造物は、寺社への奉納品であったことがよく分かります。しかし、神社仏閣に奉納品として造られた石造品も、桃山時代になって茶の湯文化が隆盛してからは、変化がありました。本来、奉納品として造られていた灯籠などが、茶の湯文化にも取り入れられるようになったのです。この理由の一つとしては、茶の湯自体が仏教と通じるものがあり、仏教美術として石造物が取り入れられたという説もあります。その後江戸時代になると、鎌倉時代に造られた石造品を模倣して造られた、「模作(もさく)」(レプリカ)が、上流階級の人々の邸宅の庭園にも取り入れられるようになりました。こうした流れも、元禄時代に大阪商人の間で茶会が開かれるようになり、茶の湯が庶民化してきたということにも関係しているのではないでしょうか。

それからめぐりめぐって近代、こうして造られてきた石造物が過去の遺産として、脚光をあびるようになりました。地震などや火事、それから明治政府によって出された「神仏分離令」などの影響で、ほってあった古い灯籠が個人の邸宅に出回るようになり、それが私の家のような石屋の所へも入るようになったのです。今では国宝、重要文化物を個人が手に入れる事などありえない話ですが、過去においては信価が公に知れ渡ることなく、路傍に置かれていたものが個人の所有になったものもあるようです。

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