真剣な会話

「ロックな日本画をやる」 木村英輝さん

木村英輝 ―――。
音楽、イベントはたまたアートに詳しい者なら畏敬の念をもってその人を見ることだろう。

60年代後半、日本初のロックフェスティバル「TOO MUCH」を成功させ、それ以降ジェフ・ベック、フランク・ザッパ、内田裕也…と国内外のロックアーティストを巻き込み、さまざまなフェスティバルを仕掛けてきた。
そして還暦を迎えた2001年からは、新たなる試みともなる壁画を手がけるようになる。
しかし木村英輝の活動はそれだけにとどまらなかった。
2008年には若い頃に影響を受けたポップアートを体現するがごとく、彼が生み出したアートをグッズとして販売するショップ「KI-YAN STUZIO」をオープンさせた。

人生の大半をロック漬けで生きてきた木村英輝(キーヤン)のロックな生き様に迫る。

Q. ロックフェスティバルを手がけられるようになったきっかけは何だったのでしょうか?

1965年に京都市立美術大学(現・京都市立芸術大学)を卒業後、そこで非常勤講師をしてたんやけど、当時は大阪万博に向けて学生運動が盛んになってきた頃で、それに参加する学生もいて、でも絵を描くモンが右や左や言うんやない、もっと違うことで飛び出していこう!って呼びかけて。卒業したてで気持ちはまだ学生に近かったから。
それに賛同する学生も出てきて「アートパフォーマンス、ハプニングをやろう」ってなったんやけど、その集会にロックをやる集団がたくさん集まって。その流れで「TOO MUCH」っていうロックフェスティバルをやることになった。よくロックフェスの仕掛け人って言われるけど、なりゆきで始まったんだ(笑)。
その後、海外のプロモーターから日本で海外のアーティストを集めて「富士オデッセイ」っていうロックフェスをやりたい、って打診があって。当時、日本には「ロックのフェスティバル」という概念がなかったんやけど、それがわかってるからって名指しされた。結局その富士オデッセイは通関の問題で開催できなかったんやけど。
それから1971年には村八分らと一緒に「モジョウエスト」をやったり海外のアーティストたちのイベントをプロデュースするようになった。

Q.なりゆきでイベントのプロデュースに関わるようになったということに怖さとか、今まで自分が勉強してきたことと違うことをやることに違和感とかはなかったのでしょうか?

とにかく無我夢中でやってたから怖さとかは特に感じなかったなぁ。それに僕は図案科だったからプロデュースということに関係がないことはなくて。
デザインは描くことじゃなくプロデュースするものだし、僕は純粋な絵描きになるつもりもなかったし。大学3年の時に朝日放送の制作プロダクションでバイトしていたこともあって、違和感なくプロデュースという仕事に向き合えた。
今でも思うのは「社会に絵を描きたい」ってことで、僕はイベントのプロデュースをすることで社会に参加する、社会とつながるってことがすきなん。

---そう考えると、イベントだけじゃなく広告媒体のプロデュースという仕事をされるようになったのも自然の流れだったんですね。
では、なぜ壁画を描かれるようになったのでしょうか?

僕はずっとフリーでしてきたから、本当はプロデューサーというとちょっと違って…会社で言うと、プロデューサーは部長で、お金の決定権がある人のことだからフリーではできない。ディレクターが課長にあたって、あれやこれやの内容を決める。だから僕の仕事はディレクターのやることで、どこかふんぎりがつかなかった。人の手伝いをしている感じがあったから。
イベントをするとなると、どこかにいきすぎた表現とかウソもまざってくるやろ?そういうのもあって、仕掛け人と呼ばれることに疑問が生じてた。そんなとき、元教え子に「先生、壁画を描いてくださいよ」って誘われて。
学生時代、ウィーンから来た恩師の上野リチさんが壁画を描くのを手伝ったこともあって、だったら壁全体を大きく使って描けたらいいなぁって「犀のファミリー」を描いた。そしたらいろんなとこから描いて欲しいと言われるようになった。


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