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おのぞみドットコム真剣な会話>ブリキのおもちゃ博物館館長 高山豊治さん
真剣な会話
山岸千太郎さん


ブリキのオモチャが日本で盛んに作られるようになったのは、昭和20年の終戦以降だと言います。現在のオモチャにはない温かみや人間味が受け、中には何十万円という高値で取引されるオモチャも珍しくないと言います。ブリキのおもちゃ博物館の館長である高山豊治さんは、ブリキのオモチャのコレクターとして世界的に有名な方です。特に、メルセデスベンツのブリキのオモチャに関しては、世界に現存する全ての種類のものを所有していると言います。また、館内にはブリキのオモチャに限らず、GIジョー、怪獣、バービー人形、ピカチュウなど15000点にも及ぶオモチャを収蔵しています。

なぜ、高山さんはオモチャを集めるのか。オモチャの何に惹かれたのか、お話を聞いてきました。



Q、日本でブリキのオモチャが誕生した経緯を教えて下さい。

極端に言うと、日本のブリキのオモチャというのは、昭和20年8月15日の終戦の日から誕生したんです。それまでは、木、紙、布、セルロイド、ガラスがベースになったオモチャだけでした。それが終戦の日を境にそれらのオモチャがなくなって、その代わりとしてブリキのオモチャが突如として誕生したんです。

なんで手品みたいに誕生したのか。それは第二次世界大戦の空襲で、東京をはじめ日本全国が壊滅したからです。オモチャ業界だけを見ても、工場はなくなるし、機械もない。だけど、そういう状態の中でも、明日から生活しないといけない。オモチャで生活していた人は、オモチャで生きていくしかないんです。今までの技術なり経験があるわけですから。

そこで、オモチャの業界の人達が、何とかオモチャを作ろうと思って最初に考えたことが、お金のかからない材料なんです。当時は進駐軍が日本にいて、海外、特にアメリカから彼らのために肉やソーセージなどの食料が、一斗缶や缶詰に入ってやってくるわけです。進駐軍が必要なのは、中身だけ。食べられて空っぽになった缶は、決められた場所に固めてストックしている。そこでオモチャの業界は、いらなくなった空缶を安く仕入れて、オモチャを作ろうと考えたわけです。それがブリキのオモチャの始まりです。

戦後に日本でブリキのオモチャを一番初めに作ったのは「小菅」というメーカーです。このブリキのオモチャは、僕のところでも展示しています。進駐軍のジープのオモチャなんですけど、見ると裏に缶詰の底の模様がついているんですね。進駐軍が使い捨てた缶で作ったからです。それに今のオモチャと比べると、手作りというのがすぐにわかります。ゼンマイもないし、ただ単に押して動かすだけ。なんでジープにしたかというと、当時、進駐軍がジープに乗って巡回していたのがよく目についたからだとか。これは爆発的に売れました。そして、売れればメーカーも儲かるし、次々に新しいものを作ろうと意気込んでくる。サイズを大きくしたり、時計のB級品のゼンマイを使ったりして手のこんだものにしていきました。こういう風にして、現在の素晴らしいブリキのオモチャができたんです。


Q、ブリキのおもちゃは戦後に量産されていったと言いますが、それが現在ではほとんど目にしなくなったのは何故でしょうか?

じゃあ何で、ブリキのオモチャが現在ないのか?それは、人間っていうのは贅沢になってくると、贅沢が感謝から不満になってくるんです。最初は喜んでいたのが、たまたま遊んでいる時に、ブリキのオモチャで手を切ったという事故が起こります。そうすると親というのは、「メーカーの作ったオモチャは危険だ」と訴えてくる。

そういう社会問題が起こって、安全検査をクリアしないと商品として売り出せなくなるようになりました。安全面をクリアするためには、カバーを付けたり尖りをなくしたりという作業が必要です。でも、こうした手間をかければかけるほどコストがかかり、価格が高くなるので消費者は買わない。だから、メーカーはそれまでの価格を維持しようとして、材質を見直す。その結果、オモチャがプラスチックとかソフトビニールに変わって、気づいたらブリキのオモチャがなくなっていた。終戦から始まったブリキのオモチャの時代は1960年の半ばぐらいで姿を消して、プラスチックのオモチャに変わっていったんです。


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高山豊治さん
ブリキのおもちゃ
駐軍のジープ


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