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昭和40年頃までは、お茶屋※1、置屋※2と、花街として歩んできた先斗町も、最近では飲食店が並ぶ街へと姿を変え、通りに軒を連ねる店も日々新しく姿を変えています。街は変わっていくけれど、一方では変わるべくして変わっているという面もあります。客が支持するから、店は生き残るのだとすれば、「先斗町らしくない店」が建ち並び始めた昨今、それらの店に対してどう思われるのか。先斗町という街の変遷を目にしてきた[抹茶庵
やまぎし]のご主人にお話を伺いました。
※1「お茶屋」:
舞妓さんや芸妓さんが、お座敷でお客に舞を披露する酒席の場所を「お茶屋」といいます。またお茶屋は、料理屋とは違い、決してその場で料理はしません。お茶屋で出てくる料理は、全て仕出しや出前のものなのです。
※2「置屋」
舞妓さんや芸妓さんが生活する場所を「置屋」と言います。
【補足】「舞妓さんと芸妓さんの違いとは」
舞妓は、芸の修練期間が浅いため、舞を舞う「立方(たちがた)」を、芸妓は、歌を歌ったり三味線を弾いたりする「地方(じがた)」をそれぞれ担当します。
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ご主人は、昭和10年に先斗町のお茶屋の息子として生まれ、この街で育ちました。昭和33年に大学を卒業した後はデザイン会社に入社し、グラフィックデザイナーとして働いたそうです。そして会社勤めの傍ら、実家のお茶屋を閉め、昭和41年に喫茶店としてオープンさせました。これは、男の子がお茶屋を継ぐことはできないという理由から、また「これから先はお茶屋がなくなるだろう」という漠然とした予測の下での決断だったと言います。
Q、花街時代の先斗町は、どういった様子だったのでしょう。また、街はどのように変わっていったのでしょうか?
戦後、先斗町には140軒のお茶屋、そして70軒の置屋が軒を連ねていました。通りに面した所だけでなく、路地の奥にあったものを含めてね。全盛期は昭和30年代でした。昭和40年代に入ってからは、徐々にお茶屋を閉めて店を譲るところが増え、どんどん新しい人が入ってきました。後から移って来られた方々は、飲食店を開く場合が多かったんです。うちの場合は、お茶屋を閉めたとはいえ、店を他の人に譲ることはしませんでした。そして結婚を機に、この店を開店したのです。開店当初のお客さんには、隣近所のお茶屋で遊ばはる方が多かったです。皆さん舌が肥えてはったから変なもん出されませんし、この店もずいぶん鍛えられました。
店の形態は、スナックが多くあった時代、それからバーの多くあった時代、そして現在のよう飲食店が増えてきた時代という風に、時代ごとに変化がありました。それに伴い、この街を訪れる客層も変わりました。お茶屋の時代は、室町の呉服商の旦那衆が、その次は割と年齢の高い人たちが多かったのが、今ではどんどん低年齢化しています。飲食店もどんどん安売り合戦になってきていて、昔はコース料理だと5000円は払わないと食べられなかったのが、今では味はともかく最低1800円で食べることができるんです。「ヨソもんには行きにくい先斗町」が、「誰でも行ける先斗町」になっているのだと思います。現に、これまでの3倍のも人通りがあります。この理由の一つとしては、隣の木屋町に風俗店の客引きが増えて、どんどんややこしくなっているからでしょう。
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