狩野永徳ってどんな人?
メリとピエールは友達同士。
ふたりともアートに興味がありますが、最近気になるのは日本の絵師のこと。
今日は、昨年秋に展覧会が開催されて話題になった狩野永徳(かのう えいとく)について話しました。
【メリとピエールのプロフィール】
・メリ
日本生まれ。小さい頃から建築やデザインに興味を持ち、全国にある伝統的な町並みについて研究している大学生。
伝統的な建築・文化から現代アートまで、幅広く興味を持つ。
・ピエール
フランス生まれ。日本文化に興味があり、留学生として京都に滞在中。日本の美術についてはまだまだ初心者。メリとは同じ研究室の同級生。
ピエール:
昨年(2007年)秋に京都国立博物館で開催された狩野永徳展を観に行ってきたよ。
展覧会を観るために開館前から長蛇の列ができていたことにもびっくりしたけれど、
作品が今でも色鮮やかに残っていることにも驚いたよ。あれはなぜ?
メリ:
あの展覧会はすごい混雑ぶりだったよね。入場者数は1日平均で8000人近くにものぼったそう。
さて、作品の鮮やかさについては保存の仕方による部分もあるのだけれど、
大きな要素として考えられるのは、永徳が極上の絵の具を使っていたから。
足利家、織田信長、豊臣秀吉という天下人がパトロンだったため、
その当時手に入れられる限りの最高の絵の具で描くことができたの。
ピエール:
当時の最高指導者からの注文を受けていたことといい、現代の展覧会の動員数といい、
狩野永徳っていうのはすごい人なんだね。興味がわいてきたよ。
今回は永徳についての話が聞きたいな。
メリ:
じゃあ、永徳の所属していた狩野派についてまず紹介するね。
狩野派は、室町時代の後期から明治時代の初期までのおよそ400年もの間、日本画壇の中心にいた画家集団だよ。
ピエール:
400年も続いたっていうのはすごいな。
天下人は替われども狩野派は変わらず。
きっと、政治的な立ち回りが巧みな一派だったんだな。
メリ:
それはあるかも。あとは、常時数十名の弟子がいたこともあって
依頼主のどんな注文にも応じられるレパートリーの広さや納期の短さが喜ばれたともいわれているよ。

ピエール:
永徳は狩野派の4代目。
室町時代から安土桃山時代にかけて、
天文12年~天正18年(1543~90)の48年を生きたんだよね。
おじいちゃん(祖父)は室町幕府の御用をつとめ(幕府から絵の注文を受け)、狩野派の地位を高めた狩野元信。
メリ:
その通り。
永徳は幼い頃から元信に英才教育をほどこされ、狩野派を率いる存在に。
でもここで注目してほしいのは、永徳は元信の三男・松栄の息子だってこと。

三男に家督(家系の中でいちばん偉い地位)を譲るというのは当時の慣例からすると異常なこと。
しかし、そのことに誰かが反対をしたという記録は残っていないそう。
ピエール:
永徳に狩野家の将来を託すことに一族の異論はなかったということだね。
元信(おじいちゃん)が亡くなったのは永徳17歳のとき。
一派の期待を一身に受けるほど、永徳の才能は幼い時から飛びぬけたものがあったんだ。
メリ:
永徳はその才能を生かして、
織田信長の安土城、豊臣秀吉の聚楽第(じゅらくだい※京都に作った大邸宅)、大阪城などの障壁画を次々に手がけたんだよ。
しかし、それらの作品は戦火などにまきこまれ、大半が失われてしまったんだ。
ピエール:
残念なことだね。
メリ:
じゃあ、次回は「永徳のどんなところが天下人に受けたのか」ということや「現代人にこれほど受けるのはなぜか」ということ、
また、寺などで常時観られる作品について紹介するね。
ピエール:
楽しみにしてるね。
(Text by 冬木 明里)
ふたりともアートに興味がありますが、最近気になるのは日本の絵師のこと。
今日は、昨年秋に展覧会が開催されて話題になった狩野永徳(かのう えいとく)について話しました。
【メリとピエールのプロフィール】
・メリ
日本生まれ。小さい頃から建築やデザインに興味を持ち、全国にある伝統的な町並みについて研究している大学生。
伝統的な建築・文化から現代アートまで、幅広く興味を持つ。
・ピエール
フランス生まれ。日本文化に興味があり、留学生として京都に滞在中。日本の美術についてはまだまだ初心者。メリとは同じ研究室の同級生。
ピエール:
昨年(2007年)秋に京都国立博物館で開催された狩野永徳展を観に行ってきたよ。
展覧会を観るために開館前から長蛇の列ができていたことにもびっくりしたけれど、
作品が今でも色鮮やかに残っていることにも驚いたよ。あれはなぜ?
メリ:
あの展覧会はすごい混雑ぶりだったよね。入場者数は1日平均で8000人近くにものぼったそう。
さて、作品の鮮やかさについては保存の仕方による部分もあるのだけれど、
大きな要素として考えられるのは、永徳が極上の絵の具を使っていたから。
足利家、織田信長、豊臣秀吉という天下人がパトロンだったため、
その当時手に入れられる限りの最高の絵の具で描くことができたの。
ピエール:
当時の最高指導者からの注文を受けていたことといい、現代の展覧会の動員数といい、
狩野永徳っていうのはすごい人なんだね。興味がわいてきたよ。
今回は永徳についての話が聞きたいな。
メリ:
じゃあ、永徳の所属していた狩野派についてまず紹介するね。
狩野派は、室町時代の後期から明治時代の初期までのおよそ400年もの間、日本画壇の中心にいた画家集団だよ。
ピエール:
400年も続いたっていうのはすごいな。
天下人は替われども狩野派は変わらず。
きっと、政治的な立ち回りが巧みな一派だったんだな。
メリ:
それはあるかも。あとは、常時数十名の弟子がいたこともあって
依頼主のどんな注文にも応じられるレパートリーの広さや納期の短さが喜ばれたともいわれているよ。

ピエール:
永徳は狩野派の4代目。
室町時代から安土桃山時代にかけて、
天文12年~天正18年(1543~90)の48年を生きたんだよね。
おじいちゃん(祖父)は室町幕府の御用をつとめ(幕府から絵の注文を受け)、狩野派の地位を高めた狩野元信。
メリ:
その通り。
永徳は幼い頃から元信に英才教育をほどこされ、狩野派を率いる存在に。
でもここで注目してほしいのは、永徳は元信の三男・松栄の息子だってこと。

三男に家督(家系の中でいちばん偉い地位)を譲るというのは当時の慣例からすると異常なこと。
しかし、そのことに誰かが反対をしたという記録は残っていないそう。
ピエール:
永徳に狩野家の将来を託すことに一族の異論はなかったということだね。
元信(おじいちゃん)が亡くなったのは永徳17歳のとき。
一派の期待を一身に受けるほど、永徳の才能は幼い時から飛びぬけたものがあったんだ。
メリ:
永徳はその才能を生かして、
織田信長の安土城、豊臣秀吉の聚楽第(じゅらくだい※京都に作った大邸宅)、大阪城などの障壁画を次々に手がけたんだよ。
しかし、それらの作品は戦火などにまきこまれ、大半が失われてしまったんだ。
ピエール:
残念なことだね。
メリ:
じゃあ、次回は「永徳のどんなところが天下人に受けたのか」ということや「現代人にこれほど受けるのはなぜか」ということ、
また、寺などで常時観られる作品について紹介するね。
ピエール:
楽しみにしてるね。
(Text by 冬木 明里)
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