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おのぞみドットコム
>昭和・平成、音故知新>「騒音寺 ライブ」
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「えーと、今日は騒音寺に行って、それから動物園にパンダを見に行きまーす」
僕にとって初めての磔磔は、かつて修学旅行へ行った時のように、そんな先生の声が聞こえてきそうだった。
京都の数あるお寺の中でも、唯一大声をあげて主張する騒音寺。それにしても観光マップに載らないのはどうしてだろうか。騒音のせいじゃない。きっと、その危険なロックが所以だ。
騒音寺は、全身花柄の男、NABEがボーカルをつとめるロックバンド。実際、騒音寺を拝むのが初めてだった僕は、その独自の熱っぽさと、強烈な男っぽさにデッドボールを喰らった。ここまでくると危険である。この人たちはストレートなんて投げない。フォークとかナックルとか、その類い。甘くみてたら即デッドだ。
世間はその姿を「情熱的」とか、「熱狂的」とか言う。確かに、そういうのも一理ある。でも、僕は思う。極めてシンプルだ、と。騒音寺の音楽には無駄がない。男臭さをロックに絡め、それでいて爽快に仕上げる。まるで、汗臭いTシャツに、ファブリーズをかけたようだ。臭いものに蓋はしない。臭いものは消臭して、殺菌、ついでにちょっとした香りをプラス。騒音寺は、男臭さを肯定する手段としてロックを使っているにすぎない。
騒音寺の音楽は歌詞が印象的である。僕が聞いたのは、音楽じゃなく、口数の多い人の話だったかもしれない。そのくらい言葉が残る。音楽が郵便屋さん、歌詞は手紙だ。手紙は郵便屋さんによって届けられる。でも、騒音寺の場合、郵便屋さんがそのような補助的な役割ではない。その手紙は、その郵便屋さんでなければ届かないというような必然性があったのである。つまり、このメッセージはロックでなければ通じない、という感覚だ。
歌詞が音楽にぴたっとはまる時、音楽はそれ以上の力を放つと思う。騒音寺は、音楽と言葉を足して2で割らずに、足して2倍した感じの音楽をやってのける。両者の可能性を活かし、両者が主張する音楽なのだ。ところで、辞書で「ロック」と引いたことがあるだろうか。なんだかしっくりこない。所詮言葉はそこまでだ。でも僕は、騒音寺を見て、あ、このことかもしれないと、漠然とロックの辞書的意味がわかった気がした。それから僕の辞書には「ロック」のところで歌う騒音寺がいる。「うーぃえー」って。
寡黙な僕でも今回ばかりは叫びたい。辞書見てわからなかったやつは騒音寺見てみろ!ロックの意味がやっとわかるぜ!と。
ライブの終盤、突然の発表は、ドラムのチャト=カーン脱退の知らせ。彼にとってこの日が最後のライブとなった。しかしハコは悲しみもつかの間、よりいっそう盛り上げることでチャト=カーンの門出を祝ったのだった。こういうポジティブシンキングも、騒音寺のしわざだったかもしれない。今夜の騒音は、拍手の起こる唯一の騒音だった。いや、爽音とでも言っておこうか。さてさて、次はギターパンダ。
僕はこんなパンダをいまだかつて見たことがなかった。このパンダは歌もギターも達者だ。マイクを口に突っ込んで歌う痛快なパンダロックは、見た目のギャップと相まって、不思議な爽快感を感じさせる。そして一生懸命歌うパンダの姿に、僕は少しの励ましと勇気を確実にもらった。ありがとうパンダ。あなたは本当にアツイ人だ。
本当に「暑い」と言って着ぐるみを脱ぎだしたパンダの正体は、38歳、山川(ボーカル・ギター)である。パンダを脱いで良い子の皆さんの夢を壊し、爽やかに現実を見せてくれる。そして、クールなドラムさばきが魅力的なヤギヌマ(カクテルドラム)は、最近結婚したらしい(祝)。そんな2人からなるギターパンダは、「せいしー」とか「せっくすー」とか思わず引っかかる歌詞と、キャッチーな音楽で、見事に奏でる。
パンダと言えば「ぬいぐるみ!」と答えてしまう僕は、動物園のパンダを見ると、そのリアルさにがっかりしてしまう。それと同様に、ギターパンダはぬいぐるみから始まって、おっちゃんに終わる。ギターパンダはそうやって、夢と現実の距離感を説いているのかもしれない。そんなギターパンダのステージは、夢と希望と現実と、そして煩悩すら含む極上のエンターテイメントだった。またパンダに会いたい。もちろん動物園ではなく、ライブで、だ。
京都はやっぱり寺、そしてパンダに尽きる。磔磔にて
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