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おのぞみドットコム >昭和・平成、音故知新>双葉双一 4枚目CD「涙の小鳥」レコ発  |  双葉双一に、何を期待して、みな、ライブへと足をはこぶのだろう…。 私はこの日、はじめて双葉双一を見た。そして、CDや試聴機から流れ出すのは、双葉双一じゃないと知った。 午後7時をたっぷり回った頃、拾得のしなる階段を、トントントンとリズムよく下りる音がした。まるでどこかの教祖のような白装束、履物はなし。センターパーツのパッつりボブ。彫が深いが、切れ長な目のせいで静かな顔となった双葉双一が、ステージ手前でこちらを見ていた。決して波立つことのないような瞳が、こっちの目を逸らさせた。それほど鋭い、何を考えているのかわからない、怖い瞳だった。 ステージに立つと、その出で立ちに客席から笑いがこぼれる。 「いいのかそれで、笑われているぞ」 そうやって私が心配することもなかった。余裕の表情から、笑われるのを予測してここに来たとすぐにわかった。笑うものを、逆にあざ笑っていた。 双葉双一は、己の中で詩を読むように歌う。誰に聞かせるでもなく歌う。嘘っぱちのない詩、己と表皮ほどの隔たりさえない詩は、声に出そうとすると舌の上でそのほとんどが体内に吸収されていく、イコール双葉双一だ。全部が私達には届くことがないのだろう、どんなに膨大な量の音源になっても、彼からは決して放たれることがないのだろう。ゆえに、世に出た、自己完結した音源の成功版だ。 では、私達は、双葉双一に何を期待して、ライブへと足をはこぶのだろう。自己完結された音楽に、私達は何を感じるというのだろう。 感じるはずがない。何も共感することのない詩に、シンプルなギターリフに、いったい何を…。どんどんどんどん聴く意識がなくなり、無意識の状態になっていく。 そして、私たちは確実に胸を打たれる。何も感じさせない音楽に、無意識に私達は涙を流す。 人は、その言動や思考のほとんどを無意識の状態でするという。そして無意識の状態が何よりも素の自分なのだそうだ。双葉双一は、無意識と共鳴し合う音楽だ。無意識の自分を知らなかった自分とするならば、双葉双一を聴き、私達は知らなかった自分と出逢うのかもしれない。 |     | | |  | | |
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