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 三浦 裕一朗
【4月11日】

『モノサシ・方向転換・場違いな感慨』

やはりタイムリーな話題は苦手だ。桜はいつも綺麗だし、新入生はいつも新鮮な感じを運んでくる。こういう時期に、そのような当たり前なところに落ち着くのは、このコラムではちょっと勇気がいるし、僕の目指すところではない。

結局「何が春なのか」と聞かれれば、個人的には桜の開花であり、入学式というイベントなのだ。梅雨は濡れ加減であり、夏は虫であって、秋は地味なカラー、そして冬はその地味さを消してくれる白い風景である。

このようにひどく個人的なモノサシから、季節というものは判断されているに違いない。科学的な見解はここでは介入の余地もなく、体感温度で考えれば、「今は秋かもしれない」などと言ってしまうかもしれないのだ。

しかし、夏と冬は明らかに気温という側面では対極にある。気温で判断している季節ではないのか。でも実はもっと身近な行為の反復が、季節にとってはそれを裏付けるものとなりそうだ。

例えば、「単なる蒸し暑さ」だけではサウナである。そこに「夏」という概念が加わるためには、自転車で気持ちよく下りきるはずだった坂道での、なんらかの黒い虫との猛スピードでの接触事故による不快感であったりするわけだ。「ガリガリ君」を食べきった後のベタベタする不快感も、そうだ。蝉による不眠症にまで至らせる現代音楽のような騒音も、結局は以前の記憶を引き戻し、反復されることによって生まれた直接的な「夏らしさ」だ。

そんな季節「らしさ」を作るのはちょっと難しい。例えば花見の席で森山直太郎の『さくら』を聴くという一見贅沢な試み。安っぽく、それでも贅沢になり得るこの計画には、自然が与えた桜という花の「春らしさ」に、人間によるいかにも「春らしい」音楽を与えることで、その漠然とした「春らしさ」をわれわれ人間の手によって完璧な「春」に仕上げようという健全な理念を掲げていたのだ。ここに「自然と人間の融合」というインチキ臭い帰着を、それでも僕は希求していたのである。

それでは、なぜ小規模でありながら贅沢な、そして多くの理屈っぽさを伴うこのプロジェクトが冷たい視線と空気という類いの、いかにも親父ギャグ的な失敗に終わったのだろうか。その要因はイメージで選曲し、軽々しい決断を下したという点にある。一度歌ってみればよかったのかもしれない。『さくら』というタイトルから、安直に「満開の桜」と結びつけた僕の判断は、正しかったとは言いがたい。

冒頭が明らかに場違いである。「僕らはきっと待ってる 君とまた会える日々を」あからさまに前提が「別れ」なのだ。湿っぽいピアノの演奏も、この楽しい場にはそぐわない。想起させるのは卒業式のそれである。

そしてサビはトドメとなった。「さくらさくら」これはいい。この曲が言いたいことは「さらば友よ」であって、「旅立ちの刻」の歌なのである。さらに「泣くな友よ」と言い、「今」は「惜別の時」だと言ってしまう。これはもう、もっともこの場を濁してしまう「さよなら」発言に他ならない。

きっと自明であったこのことを、知らなかったのは僕だけだったのかもしれない。どうせなら『マツケンサンバ「』のように必要以上に楽観的な歌の方が、この場合は「春らしさ」を無理矢理にでもくっつけることは可能だったのではないだろうかと今になって思うのである。金色の衣装をまとい、大勢のバックダンサーを引き連れて、桜の木の下でサンバするのは、きっと来年のプロジェクトだ。なんとなく成功は望めないような気がする。
【3月8日】

「OEQ=KNUXY」

人間が言葉によって操られるようになった、とは確か小林秀雄の言だったと思う。原稿を書くようになって、この言葉が頻繁にも亡霊のように付きまとっている。

文脈を無視しているという点では、全体的な解釈はできそうもない。極端に部分的な解釈なら、私自身の体験と重ねることによって機能するような個人的な解釈はすることができる。その方が、言葉にとっては健全といえるかもしれない。

もうすでに「手がかりとしての言葉」が停滞を続けている。当たり前のようなことを言えるのが言葉であって、私たちはその裏にある思想や思考を読み取ろうと、骨を砕くのだ。真実を言わないことに慣れ、真実は言えないことなのだと了解し、そして言葉とはそういうものだと見限っているのかもしれない。

そのようにして、言葉と言葉以前の意思に、絶対的な距離をとることが定着する。そして、言葉に踊らされることも無意識的に言葉の機能として(!)受け入れるのだ。そんな実に寛大な態度を示したにもかかわらず、言葉の腫瘍に侵略下にあると言うわけである。

「なんとなく」は「なんとなく」を呼ぶ。流れのようなものがあるなら、リズムのようなものがあるなら、そしてそれを認識できているなら、やはり慎重に接するべきだろう。決して「意味」への視線を忘れてはいけない。なにも同じようなことを同じように言うことにとって、無理にそれを高次的なものへと高めようとする必要なんてない。必要なのは、その後の安堵感でなく、緊張感なのである。そうであれば、高次的なものへの方向性はプラスに機能させることが出来る。

はじめは確かなことを伝えようとしている。それが最後には「ファッショナブルに」、「クリエイティブに」なったかわりに、大うそつきに転ずる。言葉のもつ無言の操作性にとらわれて、ついには主体性を失うのである。(相対化し、差異を抽出し、それを必要以上に強調することによって、やっと肯定できる存在=私)

ここはあからさまに模倣に徹する媒体ではなかったはずだ。というよりはむしろ「特殊」への過剰な意識が注がれているはずである。当然のことながら「特殊」の模倣を、「特殊」と呼ぶ事は出来ない。

いまや、ビビッドでインパクトをもった言葉にはご無沙汰だ。否、言葉ではなく、その暗黙の方向性に抗う意志にご無沙汰である。


【2月8日】

『God dwells in details.』

消しゴムで消すという作業が、実はとても重要なことだと思うようになった。それはもしかすると自明のことであって、すでに無意識の範疇に含まれるような問題かもしれない。しかし、私はそういう自明のことですら切実になる、という特性を先天的に持っている。

例えば、文章を書くうえで、(少なくとも私の場合は)最初に書いたものはたいていが煩雑である。これを直す時に、消しゴムは私自身を反映する装置として機能している。ここでの消しゴムの働きがその原稿の出来を左右すると、私は「帰納」的に知った。

消しゴムは、いつも批判的で内省的な装置でなければいけないと、私は常に思っている。消しゴムで何を消すか、というのはもちろん重要だ。次に何を書くかというのも問題である。そしてそれをまた消してしまうのもアリだ。ただし、何度でもやりなおせる、そんな楽観的な思想は消しゴムには不要である。常に批判的で内省的な装置でなければいけないのだ。粗雑なものを、より高次へと向かわせるために、私の消しゴムはある。

中学校の期末テスト。答案を返却されたにも関わらず、お決まりの行事が待っていた。それは、間違いを見直す、という退屈で苦痛な作業だった。



それに一番の力を注ぐ意味を、浪人生なら知っている。

性格というものを、如実に映してしまうかもしれない危険な装置でもある消しゴムを、上手く使いたい、私はそう思っている。ただ今は、慎重に使うことの方が私にとっては重要である。自分を客観的に見ることは、想像以上に難しい。消しゴムがその機会にならなければ、鉛筆の成長はあり得ないのだ。

【1月12日】

『ゲンコツ山のナマケモノ』

今回は「話題の特殊性」ということを度外視して、「成人式」というタイムリーな(もしくは、ほんの少し遅れた)トピックでモノローグしてみたい。

昨年成人を迎えた僕は成人式へは行かず、形式よりは内容であると信じたのだった。「成人式」あるいは「二十歳」というファクターを一つの動機として、そして新しく降り掛かる世間的な重圧を跳ね返すべく、いろいろと心に誓ったものだった。

そんなことを回想して、ベクトルは跳ね返る。あれから一年後の今、何も変わらなかった自分に思いきりゲンコツを喰らわせたくなっている僕がいる。そのゲンコツが、ある種の新鮮味を持って、僕の脳天に殺人的なスピードとパワーをもって落とされれば、本質的な反省ということに、現実的な改心ということに、僕はやっと気付くだろうか。屈辱を努力へと昇華できるだろうか。

しかし、自分へのゲンコツというのが一番難しい。この場合の衝撃というものは、精神的でなければならず、すなわち内面的な衝撃でなければならない。継続的な「痛み」が生まれなければ無意味に終わる。ここで言うゲンコツというのは言わば自虐的な行為(逆説的に自己愛ということになるのだが)であり、そこにゲンコツが難しくなる一番の原因が潜んでいる。

自己完結するゲンコツだからこそ、「落とし方」も「受け止め方」も難しい。発散したパワーを、別の受け皿でもって吸収するという矛盾とも思える行為を、僕はしなくてはならないだろう。容赦も甘えも許されない言わば社会的なルールを、ゲンコツで訓練しながら常に自らを試していくこと、それをもう理想論と呼んではいけない時期だ。二十歳のころの理想を、現実的な問題として直視する二十一歳の今。意味を含有した「痛み」を、その反作用として現実に反映させていくこと、その過程に僕なりの成長があり得ると信じたい。

結局のところ形式にとらわれることで、思考が活性化するというのは僕の場合真実である。毎年の成人式のニュースが、定期的に自分を見つめ直す要素になることは一つの機会として悪くない。

新成人の皆さん、おめでとうございます。あなたがたにとって少なくともその意味が、現実的な焦燥と客観的な省察というものを孕んでいますように。

【12月4日】

あなたの感激をネットワークすべく行われる音楽イベント『感激ネットワーク』、ちょっとスベったかもしれないそのネーミングに騙されるなよ、俺は行くぞ。

今日も寝てない俺はその告知となるバカデカい立て看板を書いていたのであって、ついさっきまで書いていたのであって、ゆえにコラムは書いていなかったのであって、思い出したときの衝撃と言ったらそれはそれはすごいものだったぞ。めまいがしたぞ。

布団しか眼中になかったわけですから。

さてさて、筋肉痛と足の震え、そしてたくさんの眠気を経て本日やっと立て看板ができました。百万遍交差点にてご覧になれます。

立て看板

『感激ネットワーク』やっぱり今回はこのネタになります、総裁命令です。

まず紹介しなくてはならないのはクボタタケシ。東京から新しい感激を伝来しにやってきます。個人的には大ニュース。今年一番の大ニュース。
http://www.skylarkin.com/

そしてセカンドロイヤル。言うまでもなく最強。
http://www.secondroyal.com/

ライブではPUG27。これで飯3杯食える。
http://www.ne.jp/asahi/osk/pug27/

THE FOXでGO TO 南国。
http://www.thefox.jp/

ザ ノイローゼボウリングセンターズで失神。
http://www.geocities.jp/noibos/
外ではレコード市、フリマ、屋台とか。
http://www.onozomi.com/kangeki/index.html

音楽づくしの8時間、どうぞよろしく。
http://www.onozomi.com/kangeki/index.html

前売りチケットは...
●JET SET京都店
http://www.jetsetrecords.net/

●ART ROCK NO.1
http://artrock-1.com/index.html

にてお買い求めいただけます。

12月12日、京大西部講堂でお会いしましょう。
それでは、おやすみ。

【11月6日】

『僕と自転車』

自転車に乗る時は、自分と向き合う時だ。
まるで眠れない夜のように頭の回転が速くなって、同時に足が見えない程にペダルをこいでいる。

僕が自転車をこぐのが猛烈に速いのは、頭の回転がリズムとなって、体がそれに反応しているだけだったのだ。

最近では槇原敬之の『どんなときも』が頭から離れない。音楽のいいところはこんなところにもある。

CDなんて持ってない。カラオケでも歌わない。(というかカラオケに行かない。)最近聴いた訳でもない。

それなのに、自然発生的に出てきたマッキー。僕の場合、音楽を本質的に噛み締める時は、そういう時だ。CDを買った直後に、その音楽の良さを語っても表面的にしかならない。何でも、その本質が分かるのには時間がかかって当然だろう。

どんなときも どんなときも
僕が僕らしくあるために
「好きなものは好き」と言える気持ち 
抱きしめてたい

そしていつか誰かを愛し
その人を守れる強さを
自分の力に 変えていけるように
(槇原敬之『どんなときも』)

僕は今日も自転車に乗って、猛スピードで現代人を演じる。



よろしく、マッキー。


【10月13日】

『台風225』

ちょっと用があり、実家(宮城)に帰ることになったのが、帰る2日前のことだった。その頃僕はもちろんあいつのことを知るはずもなく、MDの編集に精を出していた。

帰る前日、ついにあいつの存在を知ってしまう。あいつに出くわすと、ちょっとややこしいことになるため、僕は急遽交通手段を夜行バスから新幹線というよりスピードの速いものに変更した。連休に日本縦断旅行をしてしまうとは何と贅沢なことか、あいつは相変わらず生意気なやつである。しかもタイミングというものを知らないし、空気というものを読めない。とはいえ、そいつのノリというか勢いみたいなのを知らなかったので、「新幹線は無敵なのだ」という自信を持ってMDの編集を続けた。

当日あいつは、NHKの画面1/4を占めていた。僕は「新幹線は人類史上最強の発明品」と自分に言い聞かせ、なぜか戦へ向かう兵士のように戦場=京都駅へ向かった。

平民を象徴自由席という切符を片手に、僕は電光掲示板に朱色で流れる文字を見つめた。『本日のご旅行はお控えください』これは見なかったことにして、「新幹線というものは、いざとなったら飛ぶかもしれない」と新幹線を過信した。12時40分、新幹線は発車した。

30分程経っただろうか。最初の停車駅に到着かと思いきや、そこにはホームも何もない。あいつの仕業に違いない、それは確実だった。

全く駅らしい駅に着かず、止まっては少し走る、みたいなことが続いた。あいつが滞在中の静岡は深刻な被害だろう、静岡を前に新幹線は本格的に止まった。アナウンスではNHKラジオが事の深刻さを伝え、乗務員が運転見合わせの目処が立たないことを伝え、アナウンスはその繰り返しを50回ぐらい続けた。

何が辛いと聞かれれば、迷わず『この傾きが辛い』と誰もが答えたんじゃないだろうか。進行方向右に傾いた車両に慣れることはもはや不可能、下への重力というより横への重力を意識してしまうこの空間は、本当に不自然で異常であった。

数時間後、おかげで読んでいた本を読破していた僕は、晴れた空を見上げて舌打ちをした。「普段からもう少し早い行動を心がけていれば」ノロノロの生活習慣を反省した。

外は暗くなり、動かないことが普通となった新幹線の中で、経過する時間と共にヤバさのレベルは上がる一方だった。どう計算しても、今日中に家に帰れる可能性は2%。今すぐにヘリコプターで迎えに来てもらう、2%はそれだ。

運転が再開されたとき外はすでに夜。=東京で夜を明かさなければならなくなった。判断ミスと行動のダラダラ性が引き起こした、今回の惨事。おやすみ。

待ちに待った東京駅に到着したのは0時半。吉牛で考える今夜の寝場所。イエス、ホームレス。東京駅周辺が何もない場所であることは知っていたが、実際に駅周辺を2周して分かったことは、「期待しても無駄」な場所であるということだった。マンガ喫茶とかファミレスなんてどこにもない。残った選択肢、大手居酒屋か、地ベタか、究極の選択。

地ベタに決定。理由:安いから。

全く寝ずに迎えた朝4時、駅のシャッターが開く。今日ほど駅のシャッターが開くことに感動を覚えたことはないぞ。たどり着いたのは、綺麗な階段、コンセント付。携帯を充電し、今度こそ寝ようと思った。しかし、目の前にそびえるカフェ。ここが開いたらいきなり理想的な朝になるんじゃないか。

結局待つこと一時間半。カフェラテは優しかった。サンドイッチは爽やかに、今が本当に朝であることを告げた。始発まであともう少し。

キオスクの朝は大変だ。新聞を塔にするという作業がある。「大変ですね」そんなのは、僕が言われるべき言葉。購入した朝日新聞の一面には「台風」の文字が。あいつ=22号がやはり一面を飾った。僕の一連の苦痛に、この記事をプラスしてやっと事実を把握できる。今日の新聞は特別だ。くまなく読んで、敷きものに。一石二鳥のこの新聞、こういう使い方をされるべきだったに違いない。

さて、そういうことで今回の帰省は、宮城に着くまでに丸1日を要した。意味のない東京での足止めは何の思い出にもならない。しかし、宮城に到着したときの今だ感じたことのない感動が待ち受けていた。

今回の台風22号で、僕はそれを一度も目の当たりにしていない。見えない敵に時間を奪われていた訳である。僕はこの不自由さの中で、貴重な体験をさせてもらった。そう思うことにした。

(今回のコラムは新幹線内で携帯を用いて作成しました)
【9月16日】

シリトリコラム

しりとり→
立派な大人になりたい→
→いつだって僕はネガティブ→
不格好でも重要なのは精神だと思う→
うっかりしちゃうことがたくさんあって困る→
涙腺が弱くなった、今日このごろ→
ロン毛にはおそらく一生縁がない→
いっぱいお金がたまったら絶対貯金することにしよう→
うまいもんいっぱい喰って、欲しいもん全部買って、→
っていうパターンはできるだけ回避→
引っ込み思案っていうのは、自慢できることじゃないんだよ→
酔っ払うことで現実逃避はもう懲り懲り→
立派な子供になりたい→
いっぱいレゴを買って、家を作ろう→
「嬉しい」という感情と最近無縁だ→
だけど「悲しい」という感情と仲が良い→
いつも悲観的なのが理由だろう→
ウイスキーが飲めるようになりたい→
いっぱい飲んで、こう考えるよ→
ヨン様より内向的な僕は、これからどう生きるのか→
勝手にしろよ→
ヨーグルトは基本的に3つで百円じゃないと買わない→
一般的に三浦君は意味不明→
「うん、うん」→
んーと、さようなら。

【8月21日】

「夏の過ち〜summer mistake〜」


音楽部として、リリック書きました。それでは今日のナンバーをどうぞ。
---------------------

(全体的にHIP HOP調)
イエ オ チェケ ヘイカモン

毎日毎日僕らは鉄板の上で焼かれてむしむし
友達の会話も一方的だから無視無視
ガンダムみたいな構造、カブトムシムシ

(※)
おぼーん!
I wasボーン
あの素晴らしいおボーン
もう一度カモーン
もういちドーン
Yeah

毎日毎日僕らの欠点目がシバシバ
脳天直撃かき氷 頭痛シバシバ
最近ひどい物忘れシバシバ

平日平日僕らの山盛りデスクワーク
そういや最近めっきり縮小ネットワーク
夏休み最終日に思い出したホームワーク

イエ イエ ヒヤムギ ヒヤムギ

(※)繰り返し

寝不足は五輪のせい(絶対So!!)
飾りじゃないのか金メダル オオイエ

ヤッタゼ韻踏めたぜ
ヤッパリ反応が怖いぜ
SO・RE・DE・MO
クッタゼカッパ寿司(So Many)

(ため息)

俺にラップは10年ハワイアン

イエ オ チェケ ペケ

---------------------
このコラムこそ夏の過ちですか。
誰か、曲つけてください。

【8月21日】

赤い思い出

あー!!
テストがやっと終わりました!!

一回生の時に落とした単位というのはこうやって我が身に跳ね返ってきます。夜行性かつ、追い詰められないとできないタイプの僕は、おかげで不思議な生活を送ることができました。夜10時に勉強を開始し、朝7時に勉強を終え、それから学校へ行ってテスト、そして夕方に就寝するというまさに不健康なサイクルでした。

そんな不思議な生活で、中学生のテスト勉強を思い出しました。そういえば当時もそんな生活だったと思います。ある日、朝のネガティブな気持ちがいつもより倍増していたので、それを少しでもやわらげるために栄養ドリンクまでも倍増させてみようという安易な考えで、2本飲んで家を出ました。

あれは何のテスト中だったでしょうか。テスト中、僕の中心に熱く流れる液体が貫通しました。それは鼻血だったのです。テスト中に何を考えていたのか?なんていうのは愚問でしょう。もちろん僕はテストのことしか考えていませんでした。それは確実に栄養ドリンク×2のせいというべきです。その後、保健室に連行された僕は、強引に鼻にティッシュを詰め込まれながらも、テストを続けました。

数日後返却された僕の答案用紙にだけ、赤い血痕が付着していたのは言う間でもなく、なぜか毎週見ていた火曜サスペンスを想起させるような光景でした。

その「事件」で思い出したのが、小学生の時の「書写」の時間でのことです。書道に誰より気合いと自信を持っていた僕は、『人』という字を熱心に書いていました。そんな中、またもや熱く流れる液体、つまり鼻血が『人』という文字の上にポタポタと。それも、一番上手くできた『人』の上に。

しかし、『人』という文字に赤い斑点までも付け足してしまった赤と黒の二色の作品に、鼻血を出しながらも僕は新しい書道の可能性を見い出しました。しかも、この偶然によってできあがった作品は、何故かリアルな『人』を描いてしまっており、それはまさに小学生にしては完成度の高い、そしてレベルの高い前衛書道に思えました。こうして出来上がった墨と鼻血のハーモニーを、前衛美術などと言って正当化できるはずもなく、後日教室の壁に張り出されたのは、先生によって選ばれた「血のない『人』」でした。

このように僕の青春は鼻血によって印象づけられています。しかし、それを「青春」などと呼んでいいのでしょうか。それは「赤い思い出」と言うべきであって、「青」などという言葉を伴ってはいけないでしょう。
【7月3日】

『すれちがい方』を考える

僕は中学一年のころ、課されていない一つの論文を発表した。

タイトルは『すれちがい方』。
町中のデパートで、駅前で、交差点で、今日も頻繁に起こっているであろうあの現象。自分の丁度目の前に歩いてきた人と、ぶつかりそうになってしまって、お互いに回避しようとしているのにもかかわらず、互いに同じ方向へ進もうとしてしまう現象。それを何度もリピートしてしまう現象。

その現象を延々と語り、これでは日本が危ない!と言って、当時の僕はその解決法を導いていた。なんとも中学生らしい思考で、「相手より先に左右のどちらかに思いきって進もう」みたいな結論で締めた。担任の先生も、赤ペンで「先生も、これからはそうしてみます」と答えていたと思う。

京都に来てからというもの、この論文を思い出すことが多くなった。自分がこの現象の当事者になってしまうことが増えたからだ。京都の道は狭い。日本で一番「すれちがい方」に課題を抱えているのは京都かもしれない。歩いている時ならまだいい。自転車でこの現象が起こると、事態は大袈裟になる。先の無責任な結論では、恐すぎる。

最近の僕の対策は、歩くことをやめる、というものだ。事態に遭遇して、進めなくなった時には、先を急がないことにした。相手の出方を見るのである。相手はたぶん、急いでいるし、進みたいはずなのだ。結果的に、早くこの事態から逃れるには、この方法が有効だろう。それを無意識に実行している人はいる。

しかし、日本中の「すれちがい」をスムーズにさせるためには、その対策を促すだけでは事足らない。歩くことをやめるという対策の人と、思いきって左右のどちらかに進む対策の人、それぞれ半々でなくてはいけない。そうした人達が出会ってはじめて、「すれちがい」はスムーズになる。だから、あなたはどちらの立場になるか決めて欲しい。

これからのシーズン、祇園祭ではどれほどの人々が「すれちがい方」に失敗して、何度もぶつかりそうになってしまうのか。

不安で夜も眠れない。

【6月13日】

今日の朝は

「めざましテレビ」を見ながら独り言をぼそぼそ言って、大塚さんの笑顔にエネルギーをもらい、そしてその発言にちょっとにやけたりする、はずだった。

占いのランキング11位まで僕の星座があらわれなかったからといって、そこでチャンネルを変えて違う番組の占いで僕の星座が上位に入っていないか確認して、より上位にあった番組を継続して見て、芸能ニュースにくだらなさを嘆き、その番組構成を批判的に見ながら、やっぱり「めざましテレビ」だろうと言って、チャンネルを戻し、「今日のわんこ」で愛犬を思い出して、ちょっとセンチな気持ちになる、はずだった。

実家の玉ねぎとじゃがいもで味噌汁を半ば完璧に作って、そしてご飯に納豆をかけ、あまりに日本的だと嘆きながら、のどが詰まらせて、必死にコンビニに走り、お茶を購入する、はずだった。

「もう時間がやばい」と言って、「やばい」を連呼しながら顔洗って歯磨いて、「やばい」割に無駄な動きを連発している、はずだった。

チャリに乗ったら忘れ物を思い出し、もう一度チャリに乗ったら、ガスの元栓と鍵の開閉状態が気になりだし、家に戻るかどうか迷いながら、最悪な状態を想像し、「火事になったらこの上なくやばい」と結局帰るはめになり、くたくたになりながらも、ちょっと早めに学校に着いて、図書館で新聞を読んだりして、一限に余裕ぶって出て、「今日は来るの早いね」なんていう言葉を頂戴する、はずだった。

そんな平和な朝のはずだった。

でも、起きてすぐ思い出した。

そういえば今日のコラムは僕だった、と。

(!!!!!!!!!!!!)

現在、10時半。授業はもう、始まっている。

【5月20日】

「三浦のことなら、まかせなさい
うぬぼれドットコム」


始まりました、一回で終わりそうな企画、うぬぼれドットコムの時間です。

今日は朝まで課題をしていて危機的状況なのでとりあえず「うぬぼれて」テンションアップを図りたい気分です。

コラム用のネタがないため、課題のレポートから一部抜粋、そしてリミックスしました。

しかし、肝心なうぬぼれがなかったため無理矢理うぬぼれることになりました。最後の最後でうぬぼれます。

かなり強引なレポートの展開です。
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国語と数学が得意だった。

中学2年の秋。僕は考えていた。

絶対的な解答しか受け入れない無機質な科目である数学、そして言葉による表現手段を学びながらも、人間性や思想までもが領域の国語という科目。

しかしながら学校という社会では、テストという一つの形式がある。

そして、テストという形式に解答は一つ。これが鉄則。

数学が最もテストに似合う。なぜなら数学は絶対的解答がもともと存在している科目だからだ。数学という科目の構造とそれが適合する。

一方で、国語という科目とテストは相性が悪い。国語は人間性や思想までも網羅しているはずだ。ところが、国語がテストという形式に収まる時、たちまち数学になってしまうのではないか。

正解が一つ、テストにおいて言葉は単なる記号になってしまうのだ。有機的だったはずの、筆者の書きぶりや解釈の多様性などを、テストは抹殺し、数学的な捉え方を教え込もうとする。

そう、僕は数学が得意なだけだったのだ。言い換えれば数学の形式が得意なだけだったのである。

そう言えば、ずっと数学の点数だけは良かったんだ。
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【本日のうぬぼれ】
三浦君は高校入試の数学で、
トップの成績で入学しました。

やったね。

【4月26日】

僕の部屋と脳みその関係

僕の部屋が今、地震が来たみたいになっている。つまり、汚い。とりあえず、服の脱皮の痕跡が満載である。おっと、これは便利、その抜け殻に足をちょっと差し込むだけで、ズボンがいつもより簡単に履けるよ。そんなことは言っていられない。とにかく汚いのだ。プリントと本は絶妙なバランスで山積みになっていて、その間に挟まっているものを取る時は一苦労、あの、「崩れたら負け」のゲームのよう。おっと、ちょっと楽しいかも。いやいや、この間僕はその対戦相手不在のゲームに負けてしまって、なぜか悔しさを噛み締めていた。今ではもう、あちこちに積み重ねたモノたちが全部崩れていて、モノを踏んで移動する感じである。おっと、これは楽しい、お家の中でスケート気分が味わえるよ。そんなこと言っていられない。実際、この間は滑って転んで牛乳を倒し、玄関まで一本の白いラインが引かれた。さあ、学校までヨーイドン!ならまだよかった。必死にそれを拭いていたら見事に遅刻、出遅れてしまった。家を出たのはいいけれど忘れ物をしてリターン、部屋中のモノの山を掘ってやっと見つける。何の変哲のない日常の中の「宝探し」。これは全然楽しくない。

とにかく、この部屋は汚いのだ。

そこで、この部屋が汚いのは、今すごく頭の中が混乱しているからだ、という、一つの仮説を立ててみる。僕の頭の中は今、非常にごちゃごちゃしていて、きちんとした整理も出来ていない。それに伴ってこの六畳の部屋も、踏み場がないくらいモノが散乱してしてしまったんだ。だから単純に、先の仮説とは逆に、まず部屋を掃除したら、このごちゃごちゃの脳みそも掃除されてスッキリするんじゃないのか。仮説を証明するためにも、早速明日、この部屋を掃除しよう。

今日じゃなくて、明日。


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