おのぞみドットコム - 過去の1分コラム 永田 希
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 永田 希
【4月7日】

春ですねー。今日はお花見に行って来ました。東京の桜はまだ6分咲きといったところです。今日は『ヘイノ・エッレル楽派〜エストニアの管弦楽曲1』を聞きながらお送りします。前回読む予定だと言っていた『ゴシックハート』なんですが、これ、期待していた割にはあんまり面白くなかったのでがっかりしました。ただまあゴシック的なモノどもの魅力について考えようというときの最初の一冊としては悪くはないと言えなくもないというような本ではありました。

というのも、まずゴシック的なモノが現在のように多くの人たちの関心を惹いているのは疑いなくヴィジュアル系のバンドの商業的成功に因るところが大きいのにも関わらず、そのことについては冒頭で確かに認めてはいるもののまさにそのわずか一行足らず触れているのみで以降はまったく近付きもしないという点が不満。そしてそれよりも耐え難いのは、著者自ら「怪奇の表現は語り口がすべてなのだから、その世界を追求する者に未熟な技巧、下手な語り口は許されない」(本文40ページ)と語っているにも関わらず、僕にはどうしてもこの著者の語り口が未熟なものに思われてならないことだ。

もっとも、これらの難点に目を瞑ることさえできたならば、ゴシック的なモノの魅力について非常に簡易に語っているので、ともあれ表層的な共感をすることは可能だろうし、またゴシック的なモノについての理解を深める際の最初の一歩になったりはすると思う。実際この僕も、詳しく知ることが出来なかったゴシック文学というゴシック的なモノのルーツを俯瞰することが出来て、その限りではこの本に感謝していることは否定しない。もし僕のようにゴシック文学について浅薄な理解を芽生えさせているヒトがここを読んでくれるのだとしたら、あなたには紀田順一郎編著『ゴシック幻想』という本を薦めさせていただきたい。

ただ、ゴシック的なモノについて僕は、本当に語られるべきなのは共感の得やすいようなお題目ではないと思う。もちろん、まず最初に語られるべきなのはお題目なのかも知れない。しかしそのお題目が危険と矛盾に彩られている以上は、ゴシック的なモノがパンク的で好悪なモノであるからには、ともすれば魅力を褪色させてしまうかもしれないような構造(背景にある産業技術・経済や政治の歴史)への注視が必要なのではないだろうか。

ファンタジーの魅力は虚構的でない現実から遊離していくところにある。これは否定の仕様のない当たり前のことだろうと思う。しかし、ゴシックというのは、その遊離の不安というか、幻想的な語りが残酷な現実によって侵犯されるところからむしろ始まったものではなかったか。であるとすれば、ただ単にゴシック的なモノを称揚したところで虚しいアジテーションでしかない。その虚しさが多少なりとも人々の目を欺き、気付いた頃には程度に差こそあれ手遅れであるような事態を生み出すとすれば、それは確かにゴシック的な展開かもしれない。

だから『ゴシックハート』を読んでこの世界に魅了されてしまうようなヒトは身を勝手に持ち崩せば良いと思いますが、僕には残念ながら物足りなく思われました。ということでした。残念残念。

【3月5日】

どもー。みんな強く生きていきましょうね。とかそういうことを殊更つよく口にしたくなる状態の永田です(すぐいじけます。いや、いじけません。バカ)。みなさま如何お過ごしでしょうか。僕は元気です。いやいやながら生きています。ありがとうありがとう。

今日はですね「目的」とは何なのか、という非常に抽象的かつ意味深長な話を書こうかと思ったのですが時間がかかりそうなうえに非常に読みづらいものになりそうだったので急遽予定を変更させていただきまして、「オタク」と並んで僕の主要な関心の対象である「ヴィジュアル系」の話をさせていただきたいと思います。といってもバンドがどうこうといった話ではありません。文字数の関係でほとんど具体的な話はできませんから興味のないひとも安心して読み進めてください。

実はあるイベント(それに顔を出すかどうかはまだ決めていないのですが)の関連知識として、そのイベントのゲストが書いた本をさっき古本屋で買ってきたんですよ。その本は新刊として出版されたときから読みたいなあと思ってはいた本なんです。タイトルは『ゴシックハート』(高原英理著、講談社)。

やあ、ゴシックってなんなんでしょうね。そんなもん知りませんよね。ていうか僕がどこに顔出そうが何読もうがあんたがたには知ったことじゃありませんよね。ええ、ええ、僕だってあなたがたのことなんか知ったことではありませんよ。ていうかヴィジュアル系とゴシックとどう関係があるって言うんですか。っていうかなんでいまどきヴィジュアル系ですか。

いまでもヴィジュアル系は頑張ってますよ。拡散しながら。もちろんハードコアなヴィジュアル系もあります。じゃあヴィジュアル系のハードコアってなんなんだという話になるんですが、そこで手助けになるのがたぶんこの『ゴシックハート』。だってまだ読んでないんだもん。いや6日までには読破する予定ですが。でも明日僕djの予定が入っちゃってるんですよ。久し振りなので仕込みをしなきゃいけなくってどうしようねもうまったく。ってことでバタバタしてますがまた次回。

あ、ちなみに最近読んだ面白い本は『吸血鬼幻想』『感じない男』です。特に後者は最近出た本で、世の男性がどうしてミニスカや制服に萌えてしまい、ロリコン的な少女たちがもてはやされるのかについて、著者であり大阪の大学で教えてもいる現職の教授先生がみずからの性癖を克明に分析しながら敢えてライトなタッチで解説してくれます。あとがきには「女性にこそ読んでもらいたい」と書いてありましたが、僕は男性にも読んでもらいたいと思います。僕が個人的にやっているブログみたいなもので感想を書いたらなんと著者本人が「それは違う」ってコメントをくれました。前者は去年亡くなられた超博識の学者さんによるいわば「吸血鬼の歴史」を辿った本。前半はもっぱら「そんなことどうでもいーよー」という中世のお話なんだけれども、それらを読み終えてから踏み込む後半の現代へと続く吸血鬼のエロチシズムとかロマンティックな魅力についての分析は非常に刺激的。これもまだ実は未読破なのでさっさと読み終えないとなああ。


【2月5日】

こんばんわ。バレンタインの月ですね。たったひとりの愛するヒトから窒息するほどの量のチョコレートを貰うことが決まっているナガタです。

いまは萩尾望都の代表作の1つ『ポーの一族』を読んでいます。バイトもいぜんとしてやっておりません。

萩尾望都は知る人ぞ知る少女漫画の巨匠です。「はぎおもと」と読みます。『ポーの一族』はある少年を主人公に、彼の妹、彼の親友、彼の家族、彼らが出会う人たちを描く物語です。主人公の少年はいわゆる「吸血鬼」で、ヒトの生気を吸って永遠に生き続けることができます。しかし、永遠に生き続けるということは、時とともに老いて死にゆくヒトと出会っては別れていく日々をえんえんと繰り返すということです。

少年はいつまでたっても少年のままなのです。せっかく誰かと知り合うことができ、親交をもつことができても、少年は彼らの成長に追い抜かれ先立たれてしまう。成長して大人になっていく人々の間を、少年はたったひとりの友人だけを道連れにしてすり抜けていく。

「生きて行くってことはとてもむずかしいから(略)時にはとてもつらいから 弱い人たちは とくに弱い人たちは かなうことのない夢をみるんですよ」。これは物語のある箇所で、吸血鬼の村をロマンティックに語ったあとで登場人物のひとりが涙ながらに語ることばです。そう、不死であること(吸血鬼になればヒトに触れるだけでお腹いっぱいです)は、生活に苦労する普通の人間にとっては素敵なファンタジーたりえるのです。

ではなぜ萩尾望都は、ただのファンタジーとして少年たちの物語を描かず、わざわざ少年たちの不死の苦しみや切なさを描いたのでしょうか。僕が思うに、「とくに弱い人たち」と作中で呼ばれるような人たちは生半可なファンタジーには既に痛い目に遭わされていて(上記の登場人物は貴族の令嬢だったのに外国人の音楽家に騙され捨てられ地位はもちろんすべてを奪われ時代に翻弄されていました)、夢すらも簡単に見られなくなっているのです。萩尾望都は、そういう痛めつけられ絶望し切った人々に、それでもなお見続けることのできる夢を提供しようとしてたのではないでしょうか。

薄っぺらな夢がありふれた現実にあって、下手な夢を見ることは危ない戯れに過ぎない。上手に夢を見ることも、ありふれた夢や現実に満足することもできない(満足できる現実に手を届かせることができない)哀しい人たちのために物語をつくる。僕もそんな作業に従事することができたらなあと思いました。

BGM:谷山浩子『僕は鳥じゃない』もしくはハイテクノロジースーサイド『死神ゴードン』
【1月10日】

はーい、みなさんあけましておめでとうございまーす。

「おめでとうございます」って言える心の余裕は誰でも欲しいよね。何にも良いことがなくて、誰も言う相手がいなくて、声が虚空に響いたとしても。

かく言う僕もかつては頭痛の絶えない日々を鬱々と過ごしていました。自分の無力さが恥ずかしくて、生きることが虚しくて、いつも消えてなくなりたいと願っていました。世界の全てを呪いながら。………ほんの数年前までの話です。

幸いにして去年の僕には悪いことに負けないくらいたくさんの良いことがありましたので、過去のことなんかどうでも良い気もしますが。

で、僕はこれ以降に何が書けるだろうか。

持てる知識をひけらかしてこの機会を費やしてしまうというのが定石として思いつきはする。

その知識にどういう価値があるのかはわからないけど、それはとりあえず悪くはない。むしろ最善かも知れない。

でも今の僕は、その定石を拒否する素振りをすることも出来る。素振りだけじゃなくて、本当にただ知識を開陳するのみの文章ではない何かを書けるかも知れない。でも何かって何だろう?

知識って要するに情報だ。確かに情報の鮮度と深度と精度は大事だろう。間違いない。自分の強運と能力とを疑うことなく生きていられる間は、それで良い。でも人々はただ情報を伝達しあってるだけじゃない。

問題は、彼らの幸福の下敷きになっている人々、忘れられがちな日陰の人たち、それはきっとふと我に返った時の僕たちだ。―ヒロシです―。僕たちや、自分でも忘れている僕たち自身、僕たちではない、僕たちの知りもしない誰かたち(それは未来の僕たちかも知れない人たちだ)が、誤った情報を受け取り、勘違いをし、嘘と間違いが染み込んだ不完全な情報の群れをまた誰かに発信する。………いわゆる「知識」っていうのはそういうやりとりの上澄みに過ぎない。

人間誰しも間違いはある。くよくよなんかしていられないよね。って言うじゃない。その通りだろう。残念!だけどくよくよしてしまう人はいる。確実に。くよくよするくらいしか逃げ道がないひとがいる。現実に。ほかにも道があるのにくよくよする道しか見えないひとがいる。

僕に出来ることはなんだろう。冷酷で不安定な記憶やメディア、事実の怒涛から必死に逃げようとしている人たちにファンタジックなトンネル状の逃げ道を用意することは果たして僕に可能だろうか。くよくよした、でもどこかへ繋がっている逃げ道。

【12月2日】

御無沙汰しております。
地獄の沙汰も金次第、映画部の穀潰しナガタで御座居ます。仕事くれよ。ここ最近なんにもしてないよ僕。前回はとうとう初めて会ったこともない見知らぬサムワンからファンレター(eメールのタイトルが「ファンレター?」ってなってたので微妙なのですが)を賜ったり、社内のひとから「1分で読めない、もっと短くしろ」とお叱りを受けたり、とにかく色々ありました。2つだけじゃねえか。

今回は中学生時代に毎朝開けるたびに山のように下駄箱から溢れ出たラブレターのようにファンレターが届き、かつ超高速で読めば1分で読み切れるような、そんな素敵なコラムを書いてみたいと思います。

が、僕は基本的に碌で無しのフンコロガシなので言った通りにすると思ったら大間違いだ!生まれてきたのが間違いだ!それでも生きていかざるを得ない(筋肉少女帯『踊る!ダメ人間』←名曲です)。そうだよ、それでも生きていかざるを得ないんだ!ただの繰り返しだけど。そもそも毎回ほとんどデタラメばっかり書いてるじゃないか僕は。デタラメにも五分の魂。魂だけはどんなやつだって持ってるんだ。俺みたいなスレッカラシにもなれない中途半端な甘ッ垂れ野郎にだってなあ、あははははははは。もちろん眼は笑ってなんかいないさ。声と文体だけはいつだって楽しそうにしてなきゃね。でも顔まで笑ったら負けだ(笑)。ったく何に負けるってんだ。問題は勝ち負けなんかじゃないだろブラザー。

あー、ファンレターなんか貰っちゃったから今回は調子出ねえやケッ。あ、赤くなってなんかないやぃ!東京は寒ぃんだよッ!寒いとほら、ほっぺたが赤くなるだろ!東京砂漠っていうけど、砂漠の夜は寒いんだ。夜露が綺麗だぜ。第一、そもそも俺に「いつもの調子」なんていうオサダマリは必要無いんだ!いつだって不協和音。本当の反逆児には明日なんかもちろん無いけど、それどころか調子っぱずれの唄以外には繰り返せるフレーズすら無いんだ。ファンレターの宛先はnagata@nzm.jp(4回目?)。もう届かないみたいだけどなっ!なんでだよっ!?いやほんとどうしましょう社長。なんで連絡くれないんですか。助けて下さいよマジで。いまごろファンレターじゃんじゃん届いてる予定なんですけど。

【10月9日】


みんな、佐藤友哉は読んでくれたかな?読んでないよね、そんなもんだよね。ははは。あーあ。さて、一身上の都合により京都を離れ東京に帰ってきたナガタです。みなさんさようなら、こんにちは。悲しみよこんにちは。こんにちは赤ちゃん。あたしがママよ。えーい、ままよ。そんな感じのTOKIO LIFEです。TOKIO EYESではひなのちゃんよりも真治君の方が可愛かったと思います。もう誰も僕にファンレターをくれないようなのでお前らみんな敵だと思う事にします。敵に塩を送った武田信玄に倣って武田真治ファン(俄かファンだけど)の僕は敵である君たちに詩を送るよ。送りたいよ。送りたくて堪らないけどそんなファンシーなことをしたら君たちまた僕のファンになっちゃうでしょ(「また」って言っても一度もファンじゃなかったんだけどさ君たちは)。だからポエムじゃなくてコラムを書きます。今日も、また。だから今回もファンレターの宛先は書きません。nagata@nzm.jp(書かないって言って書くのは2度目ですが)

さて、前回までのオタク論を、今回から仕切り直し書き直していこうかと思っていたのですが、ちょっといままで忙しくて全然用意ができておりませんので、今回は何を書こうかなあと困惑している次第でございます。

うーんと。じゃあこうしましょう。実は僕はここ数日の間、集中してホラー映画を観ています。ビデオで、ですが。今回はこの話をしましょう。で、僕ってば東京に帰ってきて久し振りに会う友達や、その友達に紹介してもらう人とすらホラー映画の話ばっかりしてます。アニメやマンガの話がぜんぜんできません。僕もアニメを観ないでホラー映画ばっかり観ています。これ自分としてははなはだ不本意な状況なのですが、あたらしいジャンルを開拓するとどうしてもそれが面白いと感じてしまうのは好奇心ジャンキーの悲しい性。エス、エー、ジー、エー、(略)。NHKは忍者ハットリ君組合のことだと思います。

さて、ホラー映画には古くて長ーい歴史があります。それは映画発祥と時を同じくすると言ってもマジ過言じゃありません。こないだ会った小説家志望の友人の言葉を勝手に借りて著作権という最近ホットなテーマに喧嘩を地味に売ってみると、「ホラーとは予告された恐怖の遂行である」だそうです。わけがわかりませんがなんとなく響きはカッコイイです。こういうことを言えないと小説家にはなれません。ちなみに僕は「ホラーとは、恐怖の発見の提示である」と言いました。当たり前のことだよね、とか思っていたんですが、これも説明無しだと意味不明ですかね。上等だ。取り敢えずロメロ監督の『ゾンビ』とフーパー監督の『悪魔のいけにえ』(ひどい邦題だ)とアルジェント監督の『サスペリア2』(1よりも先に作られたらしい。1を観てなくても楽しめます)は見て下さい。どれも映画史に残る名作、素敵なひとときを約束してくれる傑作です。3つのうち2つはほとんど恐くないので安心して観れますよ。どれだかは言わないけど。っていうかこの3つのうち1つだけ僕は怖くて最後まで観れていません。

さて、ここでホラーの歴史とかを語ると教養番組っぽくて素敵なのかも知れませんがそんなお手軽な方法でお茶を濁したりは致しません。そもそもなんで人は怖いものをわざわざ見たがるのか、それについて議論しようじゃありませんか。大事なのは教え/教えられる事ではなくて、教え合う関係を作り維持していく事ですよ。ホラーの歴史なんていうものは、知りたい人が勝手にインターネットで検索でもすれば良いのです。ちゃんと使おうよインターネット。とはいえ、実際に探してみるとなかなかないんですよね。あー、んじゃあれだ。ファンレターくれたらあなただけに特別に、僕の世界の中心で叫ぶ愛の籠ったホラー史の講義をしてあげますよだからファンレターくださいファンレターを。こうやって人と人とは出会うものなんだからさあ。出会おうぜ?(キモい)

さて、まあそういうわけでアレですよ、なんかね(kick the can crew『アンバランス』のシングルの3トラックめ参照)。なんでわざわざ怖いものをひとは見たがるのか。知りません、そんなこと。だって僕、仕事じゃなかったらホラー映画なんかみないし、肝試しには足を運ばないし、っていうかね、僕は「わざわざ見たがる」ってことがないんですよ。ホラーみてキャーキャー言っているひとを見ると「バカか」と思います本気で。で、ホラーの魅力、それは何か。

端的に言って、みなさんもしかしてバカになりたい、とそういうことなんでしょうか。恐ろしい目に遭って、恥も外聞もかなぐり捨てて、大口開けて大声とともにヨダレや汗やお小水(失敬)などの体液という体液を放出し人間スプリンクラーと化し、自らの人間としての尊厳を密かに危機に晒す事、それがホラーの魅力なのですか。違いますか、そうですか。惜しいとこいったと思ったんだけどなあ。でもそんなヒトがいたらこっちが怖いですよね、人間スプリンクラー。いるんだけど。ちなみに僕はホラー映画を見るときは加害者の気持ちになって主人公たちをサクサクと惨殺して廻ります。ざまあみろ!ざまあみろ!と心の中で叫びながら。え、僕の方が怖いって?そうかな。僕からしたら顔も見えない君たちの方がよっぽど怖いぜ。

【8月19日】

『オタク論』を終えて

番外編?オタク的なものの果実たち?

前回までダラダラと「オタクとは何か」ということについて論じてきたわけなのですが、ファンレターはともかく、これといった批判の声も聞こえてこず、それはそれで不安になったので、機会をみて何人かに意見を求めたことがあります。そうしていると、特に年長のかたから「いまさらオタクを取り上げて論じることにこれといった意義を感じない」といったご指摘を賜ることがありました。10年以上前に「オタク論」というのは出尽くしてしまったのではないか、いまはもっと取り上げるに足る対象があるのではないか、ということだったと、僕はいただいた指摘をそう受け止めました。僕がいままでやろうとしてきたことは、オタク論を自分の知っている限りの狭い範囲のなかではあるけれども簡単にまとめ、いままでオタク論に興味を持っていなかった人達にも読みやすいものとして再提示しようというものでもあったので、「既に出尽くしている」という指摘は適当なものではなかったと思います。もっとも、字数は多くなってしまったし、書きクチも堅かったので、その目標は達成できたとは言いにくいのですが。また、「取り上げるに足る、もっとほかの対象があったのではないか」ということについては、それは本当に必要ならば誰かがきっと他の場所で取り上げてくれるだろうし、僕には僕なりの必然性があったわけで、これもきちんと応えるのは難しい指摘でした。逆を言えば、この指摘は、僕なりの必然性というのをきちんと記述出来なかったことを批判したものだったわけですから。既に以前までの回で書いたつもりになっていましたが、僕がこのコラムで「オタク論」を書いてきたのは、「自分はオタクかもしれない」と思っている人たちが読んで何らかの力や支えとして機能してくれたら嬉しいなと思っているからです。無用な自嘲はもったいないし、そのもったいなさに耐え切れずに、単純な自己肯定に走ってしまったらもっともったいない。それこそ「オタクであること」あるいは「オタク的な要素を持っていること」の価値や可能性を忘れてしまっていると思うんです。

で、そんなわけで、今回は僕が考えるオタク的な素敵文化の結晶をいくつかご紹介しようと思っていたのですが、字数の都合上、前回挙げた3つ(佐藤友哉、『フリクリ』、『アフタヌーン』)のうち、佐藤友哉だけを取り上げることにしました。理由というか言い訳としては、アニメやマンガはまあ手に取って再生するなりパラパラとめくるなりしてもらえればだいたいの感じはわかってもらえるし、そもそも『フリクリ』も『アフタヌーン』もしばらくは大手のアニメやマンガ取り扱い店の店先に並び続けるだろうと思われる「メジャー」の商品なので、そういうのに興味がある人はまあ、どうぞご勝手に手を差し伸べてその世界に触れてみて下さいって感じです。必要とされる勇気は、それらを手にとってレジに運ぶだけ。他方、佐藤友哉っていう若手作家の小説はどうか。これが微妙に入手困難で、しかもほとんど文字ばかりなので、いまいち手を出せない人というのが大量に存在している気がするんですね。そもそも『フリクリ』『アフタヌーン』と比べると圧倒的に知名度が低いと思われるわけで。佐藤友哉に触れたいと思ったら、書店をいくつか廻り、店員に問い合わせるくらいの興味が必要になるわけです。僕はそれを喚起したい。

さて、その佐藤友哉ですが、生まれはなんと1980年。僕よりも若い。もっとも、彼の周辺、あるいは彼の読者が読む他の作家達には、更に若い人もいるのでこれしきのことで驚いていてはいけません(例えば2002年に立命館大学在学中に佐藤友哉と同じメフィスト賞を受賞してデビューし、佐藤友哉の作品でもしばしば言及される西尾維新は1981年生まれ)。佐藤友哉がデビューするきっかけとなったメフィスト賞というのは、講談社発行のミステリ小説誌「メフィスト」の新人賞で、最初の受賞者に森博嗣、佐藤友哉が受賞する少し前にのちの三島賞作家である舞城王太郎を輩出する、イロモノ作家選出機関のようなものです。ミステリー小説という形式をとっていればあとはなにをやっても良い、面白ければなんでもアリ、という乱暴な説明でこの新人賞の解説はほとんど足りてしまう。ほとんどの作品が語り口は柔らかく、肝心の謎解きは崩壊寸前、もしくは崩壊してしまい、その崩壊の収拾の付け方でもって面白さを生み出すような、そんな、文学としては外道な作品ばかりの賞です(文学って何か、という批判的な機能も担ってると言えるわけですが)。佐藤友哉という小説家はそんな変な賞を受賞してデビューしたのです。

私見では、佐藤友哉は歴代のメフィスト賞受賞者のそうそうたる変態たちと比べても特別「変」です。他の作家が単に思考のアクロバットが鮮やかだったり、イビツ過ぎたりするのに対して、佐藤友哉の「変」さは、鮮やかでイビツな思考ゲームももちろん冴えているのだけれど、それ以上に、異常なほど「青臭さ」にこだわっているところにあります。

ただ青臭いだけの作家はそこここに溢れ返っているし、文学的なテーマとしてある程度普遍性のある「青臭さ」を選ぶ作家も多く存在しているけれど、佐藤友哉のこだわりとそれらとを混同されては困ります(誰が?)。佐藤友哉には「普遍的なテーマ」なんか存在しない。彼はごく個人的な世界観しか持とうとしません。わかったふりをしてわかってるみたいに見られるのではなくて、わかった振りをして見せることでわかっていないことを見せる、そんなノーガード戦法で挑んでくるわけです。だから彼は青臭いのですが、かといって自分のことばかり書くわけじゃない。むしろ自分のことはあまり書きたくないみたいで、多くの個性的な登場人物たちのさまざまな目線で物語を丹念に紡いでいく。にも関わらず、どこかから「物語」と「現実」との境界を突き破って作家本人が作品内に現れ出てしまう。そんなことしなければ「よくできた思考ゲーム」として小説は完結できるのに、そこに自分を登場させてしまうことで、自意識の強い、納まりのつきにくい気持ち悪い作品が出来上がってしまうのです。有名な作品を喩えに使って説明するなら、『ネバーエンディングストーリー(果てしない物語)』の主人公と作者とが同一人物であった、とか、『不思議の国のアリス』が実在の少女の妄想の克明な記録であった、とか、『ゴーマニズム宣言』や『華氏911』がまったくのフィクション(作り話)でした、とかいった場合の居心地の悪さ、ブキミさ。うまく喩えられた気がしません。わからなくてもあなたが悪いんじゃないですよ。僕が悪いんです。ごめんなさい。

もっとも、作者が作中に登場して愚痴を言ったり冒険してみたり、というのはいままでの文学やらマンガやらアニメやら、映画や音楽や絵画ですらも、使い古されてしまっていて今さら珍しい手法ではありませんね。それこそ、映画などの動画技術が発明されるまでは「すべての藝術の発端であり、完成形である」と言われていた演劇の本来の姿は、作者自身が舞台の上で虚実織りまぜて語ったことだったとも言えます。佐藤友哉はある意味で古典的な方法を現代に復活させているわけだ。だから安直なやり方であったなら、佐藤友哉以外の多くのキワモノ狙いのミステリー作家達が陥ったように、凡庸な曲芸にしかならなかった筈です。僕が佐藤友哉が凄い、と言うのは、そういった凡庸な曲芸が目新しくて喜んでいるからではありません。そもそも目新しさに喝采を送るほど、僕はたくさん本を読んでいませんしね(笑)。

佐藤友哉が面白いのは、舞城王太郎や西尾維新や清涼院流水(メフィスト賞の第2回目の受賞者)のような破天荒な物語設定や話の展開のはしばしに、執拗に、「リアル」な生きる苦しみ、締念、後悔、暗い欲動が深く刻み込まれているところです。問題はこの「リアル」っていうところ。僕にはまったく「リアル」ではないけれど、いま戦時下にある地域に暮らす人々にとってはいつ頭の上から爆弾が降ってきて、一生消えない傷を自分や家族が負うかもしれない、ということが「リアル」だろうし、僕にはまったく「リアル」ではありませんが、お父さんが一人ずつみんな違う兄弟がお母さんに捨てられて戸籍ももたずに生きたり死んだりする「リアル」もあるかも知れません。僕の「リアル」は読者であるあなたの「リアル」と色んな点で少しずつズレていて、ときにはまったく食い違っているかもしれない。文学というのはそういったズレが取りこぼしてしまうモノをなんとかして「リアル」に書き記すことが出来るものなわけなのですが、佐藤友哉は「果たして文学にそんなことができるのだろうか?」もしくは「果たして自分にそんなことをする才能はあるのだろうか?」というのをまさに紙上で実験しているかのような緊張感を持っているのです。いちファンとして僕は「文学はどうか知らないが、佐藤くん、あんたはそんなことする才能があるよ!」と言ってあげたいのですが、そういった声にはすぐ作品中から「だったらどうして僕の作品は売れないんだ!」「みんなうすら甘い優しい嘘ばかり求めていやがる」「オレもそんなうすら甘い優しい嘘をつきたいよ」「くそう!オレの嘘つき!けがらわしい!こんなオレに騙されるお前はバカだ」「こんなバカを相手にしてるオレもバカだ!」っていう叫びが聞こえてきます。ちょっと過激なんですが、ビビッドであることは悪いことではないと思うので、その点は取り敢えず突っ込まないでおきましょう。

さて、本稿はもともとは「オタク的なものの果実」として佐藤友哉を紹介しようとするものなのですが、僕にとっては、佐藤友哉のこの過激で泥沼化した自己批判がまさに「オタク的」だと思えるのです。普通の、オタク的でないような作品なら、「果たして文学には○○が可能だろうか」「果たして私には○○ができるだろうか」という問いに対して「よし、やってみよう」「はい、できました」というスタンスのものしかないと思うんです。佐藤友哉は「よし、やってみるけど、どうなっても知らないからな」「こんなの出来ちゃったけど、オレがつくりたかったのはこんなんじゃないんだ」「でも売れないと困るし、オレ、小説書くしかできないし、面白いって言ってくれる人がいるから」とか言い訳だらけ。甘えるんじゃない!と一喝できたらすっきりさわやかなのですが、そんなデリカシーのない態度では絶対に掬いきれない何かに佐藤友哉の作品は到達しえていると思うんですよ、僕は。だから、彼は面白い作品を書いている間は甘えてて良いと思う。それに彼は彼なりに甘えた振りをしながら、実は甘えることが出来ないっていうことを体現しているんだと思います。

ということで、みなさん佐藤友哉の作品を買って下さい。初心者にお薦めは『クリスマス・テロル』(表紙裏に「犯人は、読者です」っていきなりタネ明かしが。でも読者が犯人ってどういうことなんでしょうね!ちなみに僕が読んだときは本当に僕が犯人でした)が短くてコンパクトで、装釘も仰々しくて良いかと思います。もう少しレベルが高い人には『エナメルを塗った魂の比重』がお薦め。「気合いがあれば一日で読める」というくらい分厚いですが、頑張って読むに値する複雑さ&爽やかで胸に突き刺さるエンディング。なお、個人的には3号まで発行された思想誌「新現実」に連載の『世界の終わりの終わり』が好きです。まだ最終話読んでないけど。ちなみにこの「新現実」っていう雑誌も変なので、探してみて下さい。見つけたら怪しい表紙に臆することなく、どうぞ気合い入れて購入してみて下さい。すぐに読まなくても持ってればそのうち読むかも知れないし。

【7月26日】

オタク論(3)
オタクの自己満足


こんばんわ。ナガタです。とうとうファンを名乗るかたが現れました。さいきん新人として採用されたひとです。何を考えているんでしょうか。正気の沙汰とは思えません。どうしたら良いのか正直困惑しています。怖いのであまりカカワリアイになりたくないです(嘘)。でもファンレターはまだ届きません。誰でも良いからはやく送ってくれ。宛先はこちら……いや、めんどうだからもう書きません。nagata@nzm.jp

さて今回はとうとうオタク論も山場です。今回僕が書こうとしていることは、様々なひとたちの手によって既に出版されたりウェブ上にアップされたりしてきたいわゆる「オタク論」とかさなるところの大きいものになるだろうと思われます。それでもなお、今回またそれを書こうとしていることの理由は、いままで論じてきた2点と、今回扱う「自己満足」の問題とをきちんと結び付けて論じているものを僕がいまだかつて見たことがないからです。えーと、嘘です。正確に言うと、ちょっとしか見たことがなく、それもまだ不十分だと思われるからです。

このコラムでオタク論を始めたとき、「オタクには、大工には大工の専門用語があるように、オタクならではの共通語がある」というようなことを書きました。これはある意味で正しく、ある意味では正しくありません。どこがどう正しくないのかと言うと、大工さんは家を建てる、という仕事のために専門用語を発展させてきたわけですが、オタクの専門用語は、家を建てるための専門用語と比べるとだいぶ有用性の低いものなのです。その意味では、大工の専門用語とオタクの専門用語とは性格が異なっているんです。もっとも、オタクは夢や快楽の分野で非常に興味深い成果を挙げているので、夢や快楽の意義を知っている人からすればオタクの専門用語というのもけっして無駄な存在ではないのですが、もっと直接的で単純な夢や快楽で事足りるひとたち(こういったひとたちは、一般的に複雑で韜晦した夢や快楽を追い求める人達よりも相対数が常に多いわけですが)にとって、オタクというのはまったく無駄な存在、ときには有害だったり邪魔だったりする存在だと言って問題ないでしょう。家というのは、現代社会においては、大多数に必要とされるものですし、すくなくともその「意義」というのが明確なものなわけです。

ではオタクの夢や快楽というのは、どういう「意義」があるのでしょうか。これが、そのスジのひとたちにはすっかり耳タコな話なのですが、「オタクというのは、一部にしか通用しない意義を大事にし、それを発展させていこうとしている」わけです。ここで言う「一部」というのが、例えば学会や研究者仲間であったりすればオタクとは呼ばれず学者と呼ばれるだろうし、例えば展覧会や藝術家仲間であればオタクとは呼ばれずアーティストと呼ばれるだろうし、ファンや音楽仲間であればオタクとは呼ばれず音楽家と呼ばれるわけです。要するに、オタクというのは、自分や自分が愛好するものが「誰に」「どこで」評価されているのかハッキリしないひとたちを指すものだと言えるでしょう。もっとも、オタクたち自身は自分や自分が愛好するものが誰に何処で評価されているか、だいたい把握しているはずです。オタクという呼称にとって大事なのは、その「だれ」「どこ」というのが謎や無気味さを孕んでいる、ということです。「世間的に言ってどうやら怪しいらしい」というニュアンスが含まれるような「だれか」によって「どこか」で評価されることを目指す人達、それがいわばオタクなのだと言える、と僕は考えています。

ここまで書けば、過去にこのコラムに僕が書いてきたこと、すなわち、オタクは独自のコミュニケーションツールを用いることで独特の種族として自律し、マスメディアから白眼視されることで自他ともに認める「あやしい」存在となり、テクノロジーの発達によって出現した新しい市場の需要と供給を同時に満たすことで経済的にも自律してきた、ということと、今回取り上げる「自己満足」とが密接に結び付いていることが理解されるのではないかと思います。

自覚的でないオタクは、歴史的にどうしてオタクが差別されるのかを知らず、自分が使っていることばに専門用語が多く含まれていることにすら気付かず、非オタクな人とのコミュニケーションや、違う分野を専門にしている別のオタクとのコミュニケーションなどを上手に行うことができないのにも関わらず、しかし不特定多数が消費している夢や快楽を自分もまた評価することができて消費することができているということについてアイデンティティやプライドを持ったりしていると言えるでしょう。ただ、不特定多数にも色んなレベルがあって、非オタクが消費したり評価したりしてアイデンティティを獲得するような対象(スポーツや、雑誌や新聞などのマスカルチャー)が抱えている消費者の数と比べると10分の1から100分の1、下手をすると1000分の1とか10000分の1くらいの人数しか無い場合があります。オタクに限らず、「不特定多数」として認識できる人数というのは、例えば「100人以上」とかそういう認識の仕方なので、150人も不特定多数だし、100万人も不特定多数ということになるわけですね。150人と100万人とを比べたら、それはもちろん比べ物にならないと思えるわけですが、不特定多数同士だったら同じことですから。こういう「地に足の付かない勘定」というのもある種、オタクに共通する感覚だと言えないことは無いはずです。

さて、限られたスペースで、ダラダラと進めてきたこの「オタク論」ですが、今回をもちまして、一応最終回とさせて頂こうと思います。まとめながら話を進めたことで、当初考えていたよりもだいぶ絞った内容になって、書き始めたときよりも自分自身、見えるようになったものが多かったように思います。もっとも、書きこぼしたこともたくさんあって、またいつかどこかで、もっときちんと書き直したいと思っています。本論が、オタクに対する無用の誤解(そんなものがあるかどうかわからないのですが)を回避する助けになったら良いなあ。

ってでもあんまりまとまってないですね、結局。ごめんなさい。

次回は、これまでの流れを踏まえて、僕が推薦するオタクカルチャーの果実を紹介したいと思います。いま考えているのは、佐藤友哉という若手小説家、フリクリというアニメ、そして『アフタヌーン』というマンガ雑誌です。←追加したり変更したりするかもしれませんけど。


【6月9日】

オタク論(2)
オタクというレッテルの背景 前編


こんばんわ。ナガタです。 今回はまず誤らせて下さい。ファンレターをくださっていた皆様、申し訳ありませんでした。実はついさっきまでメールボックスの開け方を間違っていたことに気付かず、メールが届いているのに「だれも僕にファンレターをくれない!」と思い込んでおりました。

…ええ。もちろん僕の妄想です。いまだに1通もファンレターは届いておりません。送り先はこちらnagata@nzm.jpよろしくね☆

さて、前回は「オタクにコミュニケーション能力がないというのは偏見だ」「大工は大工の専門用語があるように、オタクにもオタクなりの専門用語がある」ということを書きました。今回は「オタクはダメなやつだ」というレッテルについてのお話です。

さて、ところで、知ってる人は既に知っているし、知らない人は知らないから面白くない、そういう話題があります。歴史の話題です。興味を持っている人か、あるいはそれを知る必然性を持っている人だけが楽しめる情報です。

例えば、
■1989年に宮崎勤という人が逮捕されました。
■1975年にコミックマーケット(略してコミケ)が開催されるようになりました。 
という二つの情報。この二つ、ちょっとだけオタクのことを知っている人たちにとっては、「オタク」というキーワードしか共通点を見い出せない情報です。

でも、ここには忘れられがち、あるいは無視されがちなふたつのキーワードがあります。そしてそれは「オタク」というキーワードに重大に関係しているのです。

そのふたつのキーワードとは何か。「コピー(もしくは複製)」そして「テレビ」です。

■宮崎勤はビデオテープの蒐集家でした。正確に言えば、テレビを録画したビデオテープを集めることにたいへん執着していました。ニュースでは「暴力映像など6000本以上のコレクション」と報道されていますが、実際にはそのほとんどはテレビをただ録画したものだったと言われています。

■コミケの発達にはテレビとビデオの存在が不可欠でした。テレビアニメをビデオで録画することができるようになり、アニメを題材にした同人誌(コピー機を利用して手作りする本が中心)が大量に作られ、それを売買する大勢のファンたちを新聞やニュースが取り上げたのです。「そうか、こんな楽しみ方があったのか」とニュースを観てコミケに参加するようになった人たちもたくさんいたはずです。1970年代後半以降のコピー機の廉価化と普及がこの背景にあったことはほとんど確実なことだと言えるでしょう。

僕は、「オタク」という言葉が日本語として定着するのに不可欠な要因として、「オタク」という言葉がテレビで連呼されたということがあるのではないかと考えています。折しも、「新人類」という別のカテゴリーが多用されたあとで、この「新人類」と同じくらいインパクトのある言葉がマスメディアでは待ち望まれていたのです。そこにセンセーショナルな事件として、コミケの大成長と、宮崎勤の事件がありました。(次回に続く)

ここまでの話では、どうして「オタクはダメなやつだ」というレッテルが出来上がったのかということを説明しきれませんでした。「オタク」という言葉が現在持っている意味やニュアンスというのは、簡単には説明しきれないほどに多様で深いものになってしまっているのです。次回は「オタクはダメなやつだというレッテル」編の後半ということにします。後半のメインは、なぜテレビで「オタクはダメなヤツだ」と連呼されたのか、について書こうと思います。

参考サイト:
宮崎勤事件の説明

コミケの歴史

コミケとコピー機の関係

【5月18日】

「オタク論(1)
オタクなりのやりかた」


どうも皆様お久しぶり。あるいは初めまして。映画部のナガタです。ファンレターが届かないのはどうしてですか。送り先はnagata@nzm.jpです。よろしくね。それはさておき、今回からしばらくお題をオタク論にしてコラムを書いていきたいと思います。こないだオフィスで松村さん相手に熱く語ってたら、他のメンバーにも面白がってもらえたし取り敢えず書き始めてしまうことにしました。

で、アニメをたくさん観ていると言うとバカにする人がいるんですが、オタクを差別してるだけなら言っておきたいことがあります。「お前らわかってねえよ!」っていう憤慨ではなく、「案外知られていないこと」をただ提示したいだけです。これから 書くことを知ってなおオタクを差別するのは、僕はむしろ良いことだと思います。結論から先に言うと、そういう差別を受け入れることからオタクは始まり、だからこそオタクらしい、というかオタクならではの表現が可能になると僕は思うのです。

さて、僕の見解では、オタクが差別されるのには三通りの理由があります。

それは
★オタクがコミュニケーション能力や社会性を不足させているということ。★オタクが公共の場で「駄目なヤツ」のレッテルを貼られているということ。★オタクは上記二つの理由があるのにも関わらず、自尊心が強く、しかもその自尊心がまわりに理解されていないことを受け入れないので、自己満足的に見られがちであるということ。
の三つです。

ここで僕はさっそく、人によっては意外と思われるかもしれないけど、もっとたくさんの人に知ってもらいたいポイントのひとつを紹介します。

それはすなわち、「オタクにコミュニケーション能力や社会性が欠落している、というのは偏見だ」ということ。「そんなわけないだろ」とか「それじゃ、今迄オタクだと思ってた彼はコミュニケーション能力や社会性が欠落しているからオタクじゃなかったのか?」とか思うのは性急です。ちょっと待ってもう少し先まで読んで下さい。

「オタクにコミュニケーション能力が欠落している、というのは偏見だ」と言うのには、「オタクにはコミュニケーション能力や社会性が欠落している人もいるし、欠落していない人もいる」という論理的な曖昧化=誤摩化しだけでなく、「オタクにはオタクなりのコミュニケーション能力や社会性がある」という積極的な意味があります。

「オタクなりのコミュニケーション能力や社会性」と言うと、オタク同志でしか通用しない閉鎖的なものに思われるかもしれませんが、例えば大工さんには大工さんの言葉や話し方、寿司屋さんには寿司屋さんの言葉や話し方があり、美術評論家や音楽愛好家(特に熱心なクラシック愛好家や、マニアックなジャズファン、熱狂的なロッカーたち)のあいだだけでしか通用しない専門用語や固有名詞があり、スポーツファンにしか理解できないそれぞれのスポーツのルールがあるように、オタクにはオタクの、それぞれのジャンルごとの、それに特別な興味を持たない人には理解できないコトバがあるわけです。オタクたちは、(特別閉鎖的な種類のオタクを除いて)互いにそういったコトバを交えつつコミュニケーションをし、彼らなりの「社会」を形成しているわけです。

とはいえ、それだけなら、お寿司屋さんはお寿司オタクで、大工さんは家作りオタクで、美術評論家は美術オタク、音楽好きは音楽オタクか、ってことになってしまう(そういう意味で「オタク」というコトバを使う人もいますけど)わけですが、僕の観察によると、どうやらそれだけでは不足です。しかしまあ「オタク」といわれる人たちがみんな引き蘢って誰とも口をきけないような人ばかりだという偏見だけはまず解消しないとこれからの話が出来ないので、地ならしの意味も込めて今回は「オタクにもオタクなりのコミュニケーション能力や社会性がある」ということを紹介させていただきました。

次回は、「★オタクが公共の場で駄目なヤツのレッテルを貼られているということ」について書こうと思います。また先取りして書いておくと、オタクは「公共の場」、たとえばテレビや学校で「駄目なヤツ」というレッテルを貼られてきたので「オタクなりのコミュニケーション能力や社会性」をオタクではない人たちへと開いていくことに困難を覚えるようになり、また逆に、自分なりのコミュニケーション能力や社会性を新しく出会う他人とのあいだに開いていくことに困難を覚えるような人たちがオタクになっていく、ということを紹介させてもらうつもりです。

「オタク的なもの」の起源を探る↓
http://homepage3.nifty.com/sasakibara/
1978/index.htm


その更に発展形です。↓
http://shop.kodansha.jp/bc2_bc/
search_view.jsp?b=1497189


【4月22日】

今日は暑いですね。僕はいまバイト先のエログッズ屋でこれを書いています。みなさんは如何お過ごしでしょうか?きっと素敵な夏日をお過ごしになっていることでしょうね。そう祈っています。

僕が働いているお店は正面は大きな道路に面していて、裏には大きな河が流れています。空気の流れが爽やかで、まるで浜辺の東屋にいるような気持ちです。行き交う大型車両が走り去る音はあまり風流とは言えませんが、店内にはラジオを流しているのであまり気になりません。

今週はリクエストウィークということで、ラジオからはひっきりなしに懐かしいポップソングが聞こえてきます。僕は何年も前のヒットソングに身を浸して、ちょっと感傷的になりながらお店の外をガラス越しに眺めているわけです。ガラスのすぐ外はさきほど書いたように、大通りになっています。その更に向こう側には高架がかかっていて、ときおり新幹線が走り抜けていきます。そしてそのもっと向こうに、煤煙にやや曇って、連なった山が見えます。近付けばきっと鮮やかな緑色が瑞々しいに違いない樹々が、小さく、無数に茂っています。

ああ、いったい僕はこんなところで何をやっているんだろう?いや、せっかくのこんな良い天気の日なんだから、そんな野暮なことを考えるのは止そう。今日一日を消費してしまおう。そのためだけに頭を遣うんだ。今日一日を幸せに過ごせたらそれで取り敢えず良いじゃないか。

さて、僕がこんな文章を書いている頃、みなさんは如何お過ごしでしょうか?きっと素敵な夏日をお過ごしになっていることでしょう。きっとそうでありますように。

【4月2日】

恥めまして☆ナガタです

恥めまして。映画部で毎週ペースでイタイ文章を晒しプレイしてるナガタです「今後ともよろしく」(『女神転生』)。僕の書くコラムなんて誰も興味を示さないだろうし、何書いてもノーギャラだそうなので、この際思い切って好き放題書きます。ファンレターはnagata@nzm.jpまで。あなたからの熱いお便り御待ちしています。

で、僕、カラオケが好きなんです。

精確に言うと、僕、カラオケで唄うのが好きなんです。他の人が唄うのはあまり好きじゃないです。僕がカラオケで唄う曲は『je t'aime☆je t'aime』(tommy february6)とか『ラムのラブソング』(高橋留美子原作『うる星やつら』TVシリーズの最初のオープニングテーマ。元曲は松谷裕子が歌っています。最近はTOKIOの永瀬君がCMで口ずさんでいたので聞いた事がある人も多い。っていうか永瀬のヤツ、俺の持ち唄を盗みやがった←とか書いてみるテスト←すいません、普段はこんなこと言うやつじゃないんです。)とか、『薔薇は美しく散る』(池田理代子原作『ベルサイユのばら』TVシリーズの主題歌。元曲は鈴木宏子が歌っています。最近ラ・レーヌというヴィジュアル系のバンドがカヴァーしてて、めちゃくちゃカッコイイらしいので見つけたら要チェックですゼ!カヴァーといえば、元DER ZIBETのISSAYさんの(略))とかです。

僕がカラオケでこられの曲を唄うと何を勘違いしたのか大笑いして喜ぶ連中がいるのですが、僕としてはこれが甚だ堪忍ならない。まあ僕も今年の暮れには25歳になるので、そんなことでいちいち青筋立てて「出ていってくれ!」(沢田研二『勝手にしやがれ』)とは言えません。だからこういうところで愚痴愚痴書くわけです。

歌詞も完璧に覚えているわけではありませんし、ステージパフォーマンスも完成しておりませんので、所詮はカラオケだから許されるという程度の歌唱ではありますが、僕は自分が唄う時は必死です。服もカラオケに行く時は一応、一張羅で出掛けます。 というのも、僕がカラオケで唄う曲は、どれも(というと流石に大袈裟ではありますが)、自分で独りで聴いていると自然と泪が頬を伝って、気が付くと嗚咽を漏らしているような曲ばかりだからです。僕は歌に敬意を表したいんですよ。だからお前らも僕に敬意を(略)。

「退屈な恋なんて したくない」のに「ロマンス 目覚めて」しまって、「あっというまに 溺れて」(『je t'aime☆je t'aime』)しまうし、「男のひとって 何人好きな人が欲しいの」か本気で悩むし、「私だけ愛して」(『ラムのラブソング』)欲しい。まあ、『薔薇は美しく散る』に関しては、ほら、なんつうか、ねえ?「こんな歌を唄ってサマになる存在に産まれ、そして育ちたかったなあオレ」っていう気分で泣けるっていうか。現実とのギャップをね、認めたくないというか。実は自分って「くさむらに 名も知れず 咲いている 花」なのかなあ、みたいな、ね。まあ「ただ 風を うけながら そよいでいれば良い」(『薔薇は美しく散る』)というわけにはいきませんが。

ともかく、今後僕とカラオケに行くというヒトは、「こいつ、本気で唄っちゃってるよ」ということで、けして笑わず、むしろなんかの告白を聴くような面持ちで静聴し、唄い終わったあとには厳かな拍手をしてください。出来れば、感極まってあとちょっとで泣いてしまいそうになっている僕の肩を「優しく抱いて」(美川憲一『釧路の夜』)くれると嬉しいです。下手したら本当に泣きます。そこまでやってから「笑いたかったら笑え」(BUCK-TICK『デタラメ男』)。

関連URL:
http://homepage2.nifty.com/tipitina/CGREP.html


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